発想、とか。
僕はおしゃべりがあまり得意ではないので、自室でひとり落ち着いて文章を書く方が、自分の意図を伝えるのには便利だと感じる。
なのに僕はラジオをやっている。いとこと一緒に。
いとこはおしゃべりなので助かる。
ラジオではいとこのおしゃべりに釣られて僕も色々口走ってみるのだが、なかなか自分が本当に言いたいことを言えているのか、自信がない。
伝えたい本質をどうも言葉にできていない感覚がある。
というわけでラジオでしゃべったことの補足を、日記的に文章にしてみようかな、なんて思っています。
徒然なるままに……
徒然なるマ・マーに。
おしゃべりが上手になったら、この日記もやめます。
ラジオは下記のリンクからどうぞ。
毎週木曜日22:00から生配信をしています。
中間報告ラジオ(2024.4.25)
まずはいとこの紹介から。
岡﨑 育之介(おかざき いくのすけ):映画監督・脚本家・演出家・なんか色々。
長編映画作品:「安楽死のススメ」「うぉっしゅ」
配信作品(生ドラマ):最新作「アパートメント」などなど
上記の『中間報告ラジオ』を配信している
【生ドラマ】というYouTubeチャンネルでは、演劇的作品を生配信するという試みのもと作品作りをしています。
ぜひそちらもチェックしてみてください。
あ、自己紹介忘れてた。
永 太一郎(えい たいちろう)と申します。作曲などをしております。
育之介の長編映画2作品と、【生ドラマ】全6作品のうち、2作品 (「海深劇」「アパートメント」) で音楽を担当しております。
さて、本題。
今日のラジオでは創作の際のヒント、というかインスピレーションみたいなことについて話しました。
詳しくはラジオをお聞きください。上手くしゃべれてはいないのだけれど。
ラジオでは、僕の音楽の作り方について「ゴールがあって、それにアプローチしていく」というように聞こえたかもしれませんが、それは正確ではなくて、やはり面白いアイディアがあればそれだけでは曲にならないようなものにでも飛びつくし、全体像がまったく見えていなくても、たった0.5秒間の良い音を思いつくだけで「これはイケる」みたいな感じで喜んだりもします。
要するにその時々なんですよね。
全体から詳細に向かうことだって、小さな要素が無限に膨らんでいくことだってある。
ゴールだと思っていたものが、一曲の些細な一部になる。
たった一音が、作品全体を支配する骨組みになる。
そういうことがあり得るわけです。
だから作り方は一方向ではない。
それから、音楽のアイディアを言語化することは難しいと言いましたが、僕は言葉から入ることも往々にしてあります。
これはラジオでも言いましたが、例えば「100人から同時に話しかけられているような音」とか。これは言葉や情景が先行して思いついています。
ほぼ同時に音も想像しているんですけどね。
あとは「ガラス瓶が地面に落ちた瞬間に泡に変わる」とかどうでしょうかね。
"とりあえず"言ってみる。みたいな感じで想像を広げていく。
それが言葉と音のラリーとして繋がっていく。
しかし言語化をしても、結局は音にしないと意味がありません。僕の立場上は。
でもアイディアは浮かぶし、それに追いつくスピードで音楽を作るのは無理です。腰が重いので。
だからアイディアが浮かんだときのリアルな感覚で音を再現することは、事実上かなり難しい。
もっと言うと、アイディアが浮かんだとしても、僕は忘れっぽいので、アイディア自体は頻繁にどこかへいってしまう。でも完全に忘れてしまうというよりは、霧となって脳内に散らばるような感じ。将来の自分の作品作りに、何らかの影響を及ぼしている。
だから欲張らない。また面白いアイディアは浮かんでくると思って、忘れたことを無理に取り戻そうとしない。
そして結局のところ、自分が見ている/聴いている世界というのは自分特有のフィルターを通っているので、似たような考えというのはまた巡ってくるんですよね。
風に揺れる草木を見て、巨大な弦楽アンサンブルの波打つようなグリッサンドを思い浮かべるのは、今現在の僕だけではない。そんな懐かしさを覚えるわけです。
次に揺れる草木を見た僕は何を思うのか、それを想像するのも楽しい。
ホワイトノイズの上を自由に動くバンドパスフィルターを思い起こすかもしれない。
音程をグニャグニャと変える1000台のティンパニだってアリだ。
音そのものを楽しむ。
これもとても大事だと思う。
ラジオでは音楽の三大要素の話をしたが、これには本当にこりごりで、いい加減視野を広げていこうよ。と言いたいのだが、なかなか通じないものですね。今の音楽だってこの三大要素が主軸ですからね。
でも何かの曲を聞いていて、「あれ?今の音って何だろう?」と思う瞬間ってありますよね。……ね??
それがワンダフル・ワールドへの入り口です。
自分が面白いと思う音に反応すること。そのこと自体の楽しさに気づくところから、自由な音楽への道が開けるような気がします。
そうやって耳を広げていくと、自分の周りを囲む世界に音楽を感じることができる。
音そのものが持つ質感。
沸騰したお湯のとめどないピッチカート。
踏まれた雪のグラデーション的なノイズ。
スクランブル交差点の過剰な凹凸。
波打ち際の心地よい摩擦の呼吸。
そして沈黙。
2ヶ月前に死んでしまったうちの黒猫は立派な身体をしていた。
瘦せ細っていたとはいえ、「重い」と言えるほどの身体を残していった。
生前はとてもかわいい、そして遠くまで聞こえる声で鳴いていた。
横たわる遺体は、鳴かない。
大きい。大きいものが、沈黙している。
巨大なスピーカーから、音が全く鳴っていないこと。
それだって音楽である。