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公開学級通信 #6

幸せの定義


 非常に大層なタイトルを付けてしまい、大した内容ではないので若干の罪悪感を感じながら、キーボードに指を走らせています。そんなに構えずに、気楽に読んでくれればと思います。受験のためだけではない、勉強する意味のヒントが見つかるかも知れませんよ。
 
 みんなは、どんな時に“幸せ”を感じるでしょうか?美味しいものを食べている時?欲しいものを手に入れたときでしょうか?それとも、お笑いを見て思いっきり笑っている時でしょうか?いえいえ、実はそんなことでは、人間は本当の意味で幸せになることなどできないのだと言います。(もちろんこれらのことを否定するつもりはありません。むしろこれらのことは私たちの日常に彩りを与えてくれるとても大切な事なのですから・・・。)
 
 では、人間が最も幸せを感じる瞬間とは、どんなものなのでしょうか?その答えは、「夜と霧」の著者であるV.E.フランクル氏が著書の中で次のように語っています。「人間というのは、“誰か”を幸せに出来たと実感した時にこそ、本当の意味で“幸せ”を感じるのです。」彼は、そんな経験をアウシュビッツ強制収容所の中でさえ、目の当たりにしたと言います。(むしろあのような極限状態だったからこそ、たどり着いた答えなのかも知れませんが・・・。アウシュビッツについては、1学期の歴史の授業で勉強しましたよね。ヒトラーのホロコーストの象徴ともいえる施設でした。)
 
 では、“幸せ”の定義を「誰かを幸せにしたと実感すること」だとしましょう。その誰かを幸せにするためには何が必要でしょうか?幸せにするって言うのはちょっと大げさですね。では、“誰かの役に立つ”と言い換えたならばどうでしょうか?“誰かの役に立つ”為に必要なものは何でしょうか?いろいろな答えが考えられますが、少なくとも自分自身が空っぽであれば、いつか自分が「この人のために、何かしてあげたい!」と思っても、それは叶わないことになってしまうのです。少なくとも、自分が「何かしたい!」と思った時に、それができるだけの能力は持っておきたいものです。
 
 だからこそ、勉強するのです。どれほど、“誰かのために”と願っても、自分自身が空っぽであれば、何もすることができないのです。中学校でやっている勉強がそのまま役に立つかは分かりませんが、少なくともそういった場面で必要になる能力を磨くための土台にはなるはずです。つまり、勉強するのは「誰か」の役に立つためなのです。そして、それはそのまま自分自身が幸せに生きていく事にもつながっているのです。ちょっとこじつけのようですが、少なくとも私はそう思いながら、学生時代の勉強に取り組んでいました。
 
 やらされているだけの学校生活では、きっと目一杯能力を伸ばすことなんてできません。大切なのは、“やらされている”と感じている状態から、自分自身でやっていることの意味を考え、“自分の意思”で取り組む状態になっていく事です。きっと、学校生活のどの場面にも当てはまるのではないでしょうか。めんどくさいと感じる専門委員会や係の仕事についても言えることです。3-1では、こういった気持ちで行動できる人が増えてきているように感じています。きっとこれは良い変化ですよね。

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