舞台は生物【ミュージカル「オープニングナイト」千穐楽】
前回も語ったミュージカル「オープニングナイト」、その千穐楽を急遽観に行くことに決めたのは公演のわずか17時間前でした。唯一無二の「千穐楽」を観た体験を以下に記します。
客席
さすが日曜日、そしてさすが千秋楽。3回観た中で最も客席が埋まっていました。前回のブログに記載した杏ジュリアさんの言葉にもあり、今回の後半部分でも言及しますが、「舞台」というものは観客がいて初めて完成するものなんだそうです。演者側の経験がないかつ今回も観客側であった自分がこれを主張するのは少しおかしいことではありますが、千穐楽に関しては「舞台」を完成させるための環境が最も整っていたのではないかと感じました。ちなみに「舞台」を作る側に一度も立っていないのに、お客さんでいっぱいの客席を見て感動しました。
雰囲気
今回のオプナイ、脚本・演出の岸本功喜さんが「円盤化はない」と明言したことが千穐楽の希少性を上げることに繋がったと考えています。また再演があるかもわからない、かつ円盤化されないとなればオプナイという舞台を観ることができるのはこの千穐楽が最後です。観客側はそれを理解しているからこその独特の高揚感があったはずです。少なくとも僕にはありました。
一方これは演者側も同じだったはずです。オプナイを作り上げられるのも今回が最後かもしれない、そんな感情と作品への愛が相まって力が入っている様子が伝わりました。所々セリフが違ったり、少し言葉に詰まったり、声が裏返ってしまったり、、、これらはいわゆる「完璧」を求めるのであればマイナスになるものです。しかし千穐楽においてこれは価値だと考えています。この力の入り方、それによって引き起こされる演者側の振る舞いは千穐楽でしか観られません。矛盾した言葉ですが、「完璧」でないことが「完璧」な千穐楽を作り上げるのだと感じました。
「舞台は生物」
舞台は演者だけでは完成させることができない。そこにお客さんがいることで完成するもの。
舞台は生物。全く同じお客さんが集まる全く同じ舞台は絶対に存在しない。一回一回違う舞台がその場で作られる。
私たちキャストは愛を込めてオプナイを作ってきた。同じようにお客さんが愛してくれたからこの舞台は完成した。
これらはアフタートークや千穐楽後の挨拶で岸本さんや星名さん、そして杏ジュリアさんが話していたことです。こういった話をよく表した言葉が「舞台は生物<なまもの>」だと思います。この言葉の意味は三回の公演で悉く体感しました。
ただ千穐楽を観て、この言葉は別の読み方をすることもできると感じました。
「舞台は生物<いきもの>」です。
上述した客席や会場全体の雰囲気、全力で演じる役者とそれに応える観客。そういった要素がまるで舞台そのものに「生」を与え、舞台自体が意思を持っているかのような。その「生」と直接触れ合っているからこそ、感動が脳を経由せずに伝わって自然と涙が流れるような。そんな体験でした。
これこそが僕にとって千穐楽と他2回の公演の最大の違いであり、千穐楽を観に行くことでしか得られない感覚ではないかと考えています。
まとめ
ここまで書いてきた千穐楽についての話は、演者側も観客側も第一者なので客観的に状況を把握した証人がいません。もちろん証拠もありません。そして僕の言語化能力ではこれが限界です。まだまだ話し切れていない部分があります。だからこそ、今回残念ながら行けなかった方には次があれば是非、と伝えたいです。
はじめは「杏ジュリアさんが出るから」と観に行った僕ですが、今となっては「オプナイ」そのものが大好きです。またあの「青春ど真ん中」を味わえたなら。
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