【創作作法】アーティストのルールとマナーが作品の地位を決定づける
アーティストが創造主であるためには、相応しい人物であらねばならない。作品主義が通用するのは、メディアに踊るムーヴメントさなかまでだ。このトピックでは、「国際アーティストの立ち居振る舞い」を、知ることができる。世界を目指していると公言していながらフォーマルな装いを知らずエスコートもテーブルマナーにも無関心であったアーティストの、ために書く。
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アーティスト情報局:太一監督
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日本未発表の国際映画業界情報 あるいは、
監督がスタジオから発する生存の記
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『 作法かそれとも、作法か。 』
「さほう」と読んだか「さくほう」と読んだだろうか。それぞれに「さほう:立ち居ふるまい」と、「さくほう:創り方」である言わずもがな、両者伴っての、アーティストである。多くのアーティストは“さくほう”にばかり熱心で、“さほう”に疎い。それ、“言葉の壁”以上に深刻である。
アーティストに重要なのは、「アーティストらしさ」である。規定も資格も存在しないからこそに厳密な“らしさ”を、考え直しておいた方がいい。映画祭が、ガラが、表彰が、メディアが、舞台挨拶がすべて“一流のらしさ”を指標としていることを見逃すわけには行かない。ボタンのつけ外しのルールも知らない映画監督や、ドレスの歩き方もしらない女優を歩かせたいレッドカーペットなど、存在しないのだ。「ルール」と「マナー」そのうちで特に、“アーティストらしさのルール”に触れてみる。
ここ「アーティスト情報局」はアーティストびいきの影メディアであるので、あえて一般的では無い「観え方」に注目してみよう。
そこで、日本に入っていないニュースをお知らせしておこう。
■ 最新国際ニュース:ジム ジャームッシュ監督、創造的プロセス、初期の影響、インスピレーションについて語る
「私の“コラージュ”は、新聞紙をソースにしています。新聞紙という物理的な素材はほとんど廃れてきていて、それが面白いと思っています。そして今、私たちのニュースは他の様々な方法で、ほとんどがデジタルで配信されています。しかし、私は自分のコラージュを分析したり、批判的に考えたりしません。これらのコラージュは、自分を落ち着かせたり、物事から逃避するために入る、ちょっとした楽しい夢の世界なのです。私のコラージュ作品の作り方は、私の普段の創作活動のヒントになります。脚本を書くときも、音楽を作るときも、映画を撮影するときも、私はいつもバリエーションと繰り返しに惹かれます。これらの作品では、一見異なる要素を隣り合わせにすることがよくあります。私はいつも、形成し始めたアイデアに関連する素材をかなり長い時間かけて集めることから始めます。十分な量の材料が集まったら、それらを使って例えば脚本を書いたりします。それぞれのメディアで全く同じ手順というわけではありませんが、私の作品はこの“作る前に集める”というプロセスによって定義されていることは間違いありません」
「“ウィリアム バロウズ(※「ブレード ランナー」著者)”が日記やスクラップブックを作っているのを見たのは、「バロウズ:ザ ムービー」(1983年)のセットで働いているときだった。それらはすべてカットアップされていて、画像や言葉などの情報を再操作していました。こうした方法で自らのテキストを構築していたのです。それを目の当たりにして、自分の仕事の仕方や、もちろん今作っているコラージュにも影響を与えました」
「私はキャッツキルの自宅で音楽を録音したり、アート作品を作ったりしていますが、どこか孤立していますよ。」 - SEPTEMBER 15, 2021 ART in America -
『 ニュースのよみかた: 』
アートフィルム界の巨匠がイマジネーションの根源にある“コラージュ”というツールを通じて、その創作手法を語った、という記事。
アーティストの数だけ、創作スタイルがある。その中でも“アイディアの源泉”たる部分に触れられる記事は、実に珍しい。“自然体”をそれこそ画に描くような映画監督のジム ジャームッシュが“コラージュ”のようないわゆる“ネタ帳”を仕込んでいたとは実に人間的で、美しいではないか。巨匠も人間であった。
正直、必要では無い。ただし巨匠の誰しもが「創作の過程」を観える化して残しておこうとするあたり、それが正解なようなのだ。
『 一周回って、まだ回るアーティストたち 』
アーティストが避けたいものに、「ベタ」というジャンルがある。ありとあらゆる芸術表現において必ず存在するこの“ベタ”は、誰にも嫌われしかし、誰もが愛する“魅力の源泉”である。
アーティストは誰もが苦難のオリジナル探しを経つつ“一周回って”、ベタに返ってくる。それでもそこに留まることを恐れて、またオリジナル探しの旅に出る。
国際的に成功している巨匠の多くが、驚くほどの“ベタ”を駆使している。泣かす、驚かす、感動させる、巨匠はベタを恐れない。実は“ベタ”、ブルーオーシャンであることが多いのだ。そして“加齢”を経た巨匠は臆することなくベタを突き進む。それ、正解なのかも知れないのだ。
『 アーティストらしさ 』
演じろ、というわけではない。「アーティストらしく生活しているか」ということだ。一般人の幸福と喜びを求めていれば、一般人のレールを進むこととなる。アーティストらしさを醸すなら、アーティストに相応しい“生活”がある。
国際的に成功している著名人たちの多くが、規則正しく暮らしている。道徳を遵守し、常識を重んじ、他者の在り方を尊重し、他者の話を聞くことに注力する。質素を選び、地味を生きる。それを人々は「スターなのに!?」と驚くが、その通り。その生き方こそが、“スターだけの生き方”である。この地味な生き方ことがアーティストを輝かせ、浅ましい一般人との格差を描く。
アーティストらしさとは、一般人が選ばない地味な生活の中にある。
『 国際アーティストの立ち居振る舞い 』
“エスコート”に終始することだ。
著名な国際人とは、その地位を譲られる資格を持った人物のことである。アイルタレント出身の名俳優が栄誉ある地位を獲得できないのは、“その地位に不似合い”であるからなのだ。あなたが欲しいその地位には現在、他のアーティストが君臨しているはずだ。空席など、無い。
つまり、アーティストが国際マーケットで地位を確立するために必須なのは、栄誉ある地位の先人たちをエスコートし、勇退願うに相応しい“好人物”であることだ。「作法:さくほう」のプロフェッショナルなのだからいまこそ、「作法:さほう」に精通すべきである。
あなたが世界の頂点に立った日から時間は流れ、やがて他者に譲る日が来る。貴方はその席を、どんな人物に明け渡したいだろうか。
『 編集後記:』
著名な画家から、「ブロック プリント」を教わった。やや潔癖気味なわたしは“ラリーキルト”にははまらないが、ブロックプリント、これには反応してしまう。インド伝統技法の布染色様式なのだが、木彫りの“版”に色をのせて、押す。色を変えて、重ね押す。
「浮世絵」ではないか。
紙と布の違い、顔料と染料の違い、木版の上下の違いはあれどその微妙な違いが生み出す“一点もの”のオリジナリティーは味わい深く、歴史に彩られたストーリーをまとう。不安定な精度は、最新の高品質が失っている“華”である。和のテキスタイルで木版を彫ってみたいと想い久しぶりに、彫刻刀の状態を確認してみたりする。
名月に手作業を重ねて華を描く、映画製作の現場へ帰るとしよう。では、また明日。