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【“自称プロ”は趣味人】プロフェッショナルとして一流を生きる

アーティストには、資格がある。プロを自称する趣味人に、本質的な成功の路は無い。このトピックでは、「プロフェッショナルになるための入り口」を、知ることができる。年齢に比例して“キャリア”を申告しているが実は素人活動を続けているだけなアーティストの、ために書く。

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アーティスト情報局:太一監督
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日本未発表の国際映画業界情報 あるいは、
監督がスタジオから発する生存の記
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『 素人は、続けても素人である。 』

素人とプロフェッショナルの、レールは異なる。
どれだけ経験を重ねてもレールが違えば、国際的な“一流”には到達しない。

超絶技巧のアマチュアは、新人のプロフェッショナルに劣る。
異論はあろうが事実でありそれは、プロフェッショナルの活動域である国際マーケットにおいて、素人が評価対象外となる現実が証明している。

素人は、メジャーを手がけても永久に、素人のままである。
勘違いすれば時に、未来は扉を閉ざす。

そこで、日本に入っていないニュースをお知らせしておこう。

■ 最新国際ニュース:タランティーノ監督作映画「パルプ フィクション」のポスターを巡る訴訟が発生

映画「パルプ フィクション」の“ポスター”、
クエンティン タランティーノ監督が1994年に発表した傑作映画のマーケティングに焦点を当てた著作権訴訟の状況が判明した。

ユマ サーマンがベッドに横たわり、タバコを吸いながら銃とパルプマガジンを手にしている姿は、間違いなく象徴的なイメージだが、その「映画ポスターの権利」は誰のものなのか。配給元のディズニーとミラマックスの社員がなぜか重要な書類を見つけられないという事実のおかげで、連邦判事は本作のマーケティングに問題を呈した。

ロサンゼルスのギャラリーで有名人を撮影している著名な写真家、Firooz Zahedi氏がその権利を主張している。彼は1994年4月7日に個人のスタジオでサーマンを撮影した。そして今、彼は自分の作品を「何千もの消費者製品」に使用したとしてMiramax社を訴えている。

ザヘディは自分の仕事に対して1万ドルを受け取ったが、これは彼の標準報酬を「はるかに下回る」ものだったという。

ミラマックス社は、ゼヘディが突然、所有権を主張するために「出てきた」ことに憤慨しているが、話は少々異なる。ザヘディが起用される前に、ミラマックス社のマーケティングチームがアイデアを検討し、サーマンをベッドの上に小道具を置いたキャラクターとして使うというコンセプトにたどり着き、一連のスケッチを作成していた。そして、「ミラマックスが作成したレイアウトに沿って」ザヘディが採用され、最終的に、タランティーノ監督や製作パートナーのローレンス ベンダーはもちろん、プロデューサーであったハーヴェイ ワインスタインをはじめとする上層部の承認を得て、本作のポスターが完成された経緯がある。

Zahediは、自分が得たのは「アイデア」だけであり、そのアイデアをどのように写真に定着させるかについては、「すべての創造的な決定」を行ったのは自分である、と答えている。 - SEPTEMBER 13, 2021 THE Hollywood REPORTER -

『 ニュースのよみかた: 』

映画ポスターの企画者ではなく“撮影担当者”が著作権を主張している金銭裁判が荒唐無稽、という記事。

本件はまるで意義のないスルー案件なのだが、総合芸術と称される「映画の芸術性」について考える機会となる。映画が総合芸術と言われるのは一般的な“商品開発”とは異なり、その関係者の“大多数がアーティスト”だということだ。

音楽や舞台興業にも通ずる本件には、クリエイター出身で各種業界キャリア経験の浅いアーティストたちが見落としがちな「マナー」に溢れている。

『 アーティストの職域を理解する 』

アーティストという生き方には、明確な定めがない。そのために“自称”がまかり通り圧倒的多数が、ただの「趣味人」である。その違いは、“プロフェッショナルとの連携”において、明確になる。

国際映画祭を照準とするような映画には、趣味人が参加するポジションは無い。常に競争倍率250倍だとされるメジャー ポジションに通用するのは、プロフェッショナル限定。プロフェッショナルとは、「専業」であることと「法的責任を負える」ことであった。それは、エンターテインメント種作品が業界経済を牽引していた60年もの長期間に定常化した慣習だ。

それ、変わりはじめている。

『 現代流プロフェッショナル 』

先ず、“専業”よりもシナジーの価値が認められ、「マルチ ハイフネーション(複数業)」が定常化した。なお、“副業”や“兼業”ではない。「複数業にプロフェッショナル」の意味だ。たとえば、写真家が動画を撮り、シネマトグラファーが短編映画を監督するようなことだ。俳優の起業や、プロデューサーのサロン運営などもある。

また、「法的責任を負える」という点においても“自己破産”に逃げられることを鑑みれば、個人保証が理想では無い。むしろ、本名で日常を開示している“VTuber”としての一般クリエイターの方が、信用に足る場合も多い。

だがそれでも、プロフェッショナル領域に、「趣味人」の居場所は無い。

『 プロフェッショナルと“組む”方法 』

趣味人には、「プロフェッショナルからの信頼」が無いのだ。これ、今いちど反芻してみて欲しい。一般クリエイターはどうキャリアを紡いでも永久に、プロフェッショナルの信頼は得られないのだ。

プロフェッショナルの信頼を得るためには、プロフェッショナルの業界で、ミッションを共有し、対等な共同作業を成功させねばならない。だが、それを行うには、プロフェッショナルの信頼が必須。まるで停車しない無限列車だ。

国際的なマーケットにおいて一流の成功を手にするためには、プロフェッショナルであることが条件になる。プロフェッショナルの信用を得てキャリアを積むためには、“実績”が必要だ。実績は、“必要とされる”ことから手に入る。

プロフェッショナルに、「貢献」することだ。
“下積み”だという理解は正解では無い。また、媚びることも正しくない。

プロフェッショナルを観察し、理解し、「対等なポジションからの貢献」を提供することだ。求められる立場になればこそ、列車は停車する。

『 編集後記:』

「1秒」が最小単位だった時代、日常はシンプルだった。
視力のいいわたしは教室の最後列から黒板上の時計の秒針が観えたのだが、メモリと針が微妙にずれているのが嫌で、クラス替えを楽しみにしていた。

リミテッド アニメーションなら1秒は8から24fps(frames per second:秒毎のフレーム数)、実写映画なら23.98fpsか、29.97fps。
1秒が最小単位だった人生はもう、戻ってこない。

瞬間を重ねた今を見誤らず未知を解く、映画製作の現場へ帰るとしよう。では、また明日。

■ 太一(映画家):アーティスト業界情報局 × 日本未発表の国際映画業界情報 あるいは、 監督がスタジオから発する生存の記