【プロジェクトの誤解】企画が完成してから製作する時代は過ぎて
綿密な企画開発、立派な企画書、徹底したNDA。すべては“完全に管理された上質なプロダクトのため”の備えだがそれ、時代錯誤な間違いだ。このトピックでは、「現代流企画開発の本質」を、知ることができる。まだ3年前までの常識に基づく流儀を過信して“自分は出来る”と想いこんでいるアーティストの、ために書く。
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アーティスト情報局:太一監督
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日本未発表の国際映画業界情報 あるいは、
監督がスタジオから発する生存の記
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『 責任と無責任 』
「綿密な準備は、お客様への責任として。」
立派な名文句だが時代錯誤な、間違いだ。徹底した情報管理のもと企業内で内密に積み上げる上質な企画開発とは、観客やユーザーを置き去りに進める無謀かつ無責任なプロジェクト組成である。もう。
世界が一時停止した瞬間、人類の価値観は一変した。もう戻らない。マーケット主導のインフラは瓦解し、進化した一般人は広告ではなくコミュニティを信じるようになった。
観客やユーザーと共に完成させるのが、現代流プロジェクト開発。そもそもに客の体験を無視してプロジェクトを完成させることは、無責任である。現代流企画開発とは、徹底的な調査と綿密な準備の上で(※ここまでは良い。)そのロードマップを開示、丁寧な拡散を行った上で開発過程を“価値化”して提供しながら、当初予定の準備された企画を変化させ続けることにある。
現代の企画とは、事前に身内で決定するものではなく、対外的な検証を反映しながら、「一流の瞬発力」で、進化させ続けるものなのだ。インディペンデントに限らずどれだけ大きな国際プロジェクトであろうとも、例外ではない。
そこで、日本に入っていないニュースをお知らせしておこう。
■ 最新国際ニュース:キャリー フクナガは「007:No Time to Die」のスクリプト(※映画脚本)が未完成のまま、監督せねばならなかった
「No Time to Die」のシーンがストーリーにどう組み込まれるかを知らずに、ね。どうにかして、すべてがうまくいったよ」とフクナガ監督は語る。
フクナガ監督はNetflixでのドラマシリーズ「Maniac」を監督した当時の経験から、スクリプトがまだ書かれている最中には絶対に、撮影を開始しないと誓ったていたが、その約束は長くは続かなかったことになる。
「えぇ。“ボンド”では、撮影が終わってもまだ書いていました。“ポスト”(※編集仕上げプロセス)でさえまだ、書いていたんだ。」
近日公開予定の007シリーズの超大作映画「No Time to Die」の監督は、全体のプロットにどのように反映されるのか見当もつかないまま、シーンの演出を余儀なくされた。制作は中断されなかった。それどころかフクナガ監督は、撮影中に負傷した主演のダニエル クレイグ=“ボンド”のいないシーンが映画の中でどのように組み合わされるのか分からないまま、そのシーンにシフトしなければならなかった。
「MI6のMのオフィスのセットだけは、完成していたよ。私は自分が作ったアウトラインの中で、そこで起こってほしいことを多かれ少なかれ知っていましたが、スクリプトの本文はまだ何も書かれていませんでした。それでもわたしは、世界で最も偉大な俳優たちと一緒に座っていました」
「さまざまなことに応用できるように、意図的でありながらも曖昧な台詞を書いていました。このページを書いているときは、まるで“マルチ エンディング小説”を自分で選びながら読み進めているかのようでした。もし、ここでこんなことが起きて、ここに行かなければならないとしたら、このページはそのために使えるだろう、という具合です」
フクナガ監督は続ける。「完成し、公開が近づいた今だからこそ“大丈夫だ“と思う秘密を教えよう。予告編でレイフ ファインズが言っているセリフは撮影当時、レイフも私も何のために言っているセリフなのか、よくわかっていなかったよ。」 - OCTOBER 01, 2021 IndieWire -
『 ニュースのよみかた: 』
新作007プロジェクト、プロセスをエコノミー化しつつ“進化し続けながら”完成させ、大成功中という記事。
世界一時停止“以前”の企画でありながら、完全に“現在対応型”へと昇華させた映画開発の完成例である。度々繰り返された上映延期の度に“企画開発状況”を公開し続けしまいにはスキャンダルや事故までも開示しながらその“過程”で楽しませ、最高のタイミングを獲得した。考え得る限りの最高点企画であろう。
そこに、衝撃の現実が内包されている。
注目すべきは本企画のプロダクトつまり、映画の中身が面白いかどうか、は主要課題外という現実だ。プロダクトやアーティストの作品は、企画の本質ではない。
『 プロジェクトの開発方法、いま、昔。 』
“企業責任”という言葉が意味を成していたのはせいぜいに、平成までだ。それつまりは当時、企業がマーケットを支配できていた、という意味である。現在は、違う。一般人を代表する購買層と利用者たちはもう、企業とマーケットを信じていない。コミュニティのマナーを生き、プラットフォームを活用してい目的を遂げている。
企業と会社員たちは、捨てられたのだ。
社会インフラに寄生できた時代は過ぎいま、個の実行力が試される。プロジェクト開発は一部の天才が行うよりも、大勢で構成されているの“非中央集権型コミュニティ”に揉まれてこそ、誕生する。
『 企画書のデファクトスタンダード 』
“立派な企画書”に意味があるとするならそれは、構成とデザインにかけた時間分に“古い情報”でありかつ、そんな物を用意せねば実現しない程度の魅力薄なプロジェクトの概要だという証明だ。
Amazon社やApple社の社内ルールに則して、企画書は“ペラ1”(※ぺらぺらの紙一枚)というブームがあった。
現代では既にその企画書自体が存在しない。SaaS型のビジネス チャットなどのチーム コミュニケーション ツール内で“情報素材”を共有することが最適解だとされている。問題は、その“仕組み”についてこられない者たちが発生することだ。だが実際のところ、遅れる者を救うことに意味は無い。“プロダクト開発”についての話だ。
『 契約書に観る認識の違い 』
日本の契約書はせいぜい30ページ。一方でハリウッドの契約書は400枚におよぶ、とされる。事実であり、認識違いでもある。
日本の契約書は30ページでひとつの契約書しかし、ハリウッドの契約書は、400枚それぞれが、1枚づつの契約書なのだ。初対面から会議を重ねる度に交わされるサインが積み上がり、プロジェクト完成時に振り返れば数百枚、ということ。それは例えるに、“議事録の共有”である。
都度情報を共有し、都度確認と合意を“契約”し続ければ、破綻はない。
日本の契約書は半年闘っても姿無き、どこかの企業内の上司が首を振れば消滅する。そんな危険な契約に半年も付き合う時代では無い。日本フォーマットを捨てなければもう、国際契約は結べない。「いちど持ち帰りまして――」とは、決別の意。
『 編集後記:』
DMCの刺繍糸が好きだ。衣服をつくろう場合は太い5番を選ぶのだがコットンパールの発色を採用して敢えて、生地とは全く異なる色を使う。柔らかくて弱いけれど、それもまた。
かつては細い“だるま”糸を使って生地の目を丁寧に再現していたがこのところ、アクセントよりも堂々、“補修”を主張することに価値を感じている。どんなにお金を投じるよりも価値のある、自身の一着が完成する喜びは代えがたい。
掛け替えのない、映画製作の現場へ帰るとしよう。では、また明日。