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【人生とトレードオフ】幸福を求めるアーティストは信用されない

ルールはないしかし“人生を捧げた機械たち”の戦場に挑むなら、犠牲はマナーである。このトピックでは、「創作人生の捨て方」を、知ることができる。実は幸せな毎日を愛する人々と共に生きたいアーティストの、ために書く。

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アーティスト情報局:太一監督
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日本未発表の国際映画業界情報 あるいは、
監督がスタジオから発する生存の記
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『 引退のすすめ 』

国際的な映画賞レースにおいて、自身の幸せを求めるアーティストは信用されない。大スターのハリウッド“タレント”がカンヌ国際映画祭で冷遇されることからも、観てとれる。懸命に“チャリティ”や“慈善活動”をアピールしてバランスを図って一般風潮を味方につけたい彼らではあるが、成功例は少ない。彼らの主演作品は“実質的に”、エントリーすら通らない。その作品には少なからず作為的な私欲が装備されており、観客照準純度の芸術作品では無いためだ。

ただし人間である以上当然、幸福を求めることにこそ、生きている意味を認めることがマジョリティだとも理解されている。アーティスト活動とは、“専業”がマナーである。極論なわけではない、国家公務員法により副業が禁止されている公務員、乗客の命を預かるパイロット、義務教育中の子供などもまた。

アーティストに、副業は認められない。“創作以上のなにか”を求めるなら、たとえばそれが自身の人生に関する欲であるのなら堂々、「引退」すべきだ。両立させる方法は無いがアーティストには、選択する権利がある。

そこで、日本に入っていないニュースをお知らせしておこう。

■ 最新国際ニュース:キャメロン・ディアス、女優業からの撤退を振り返る。「すべてだったわ」

女優業が人生の大半を占めていたこと、それが一歩退くきっかけになったことをキャメロン ディアスが語った。

48歳のディアスは、「高いレベルのことを長期間続けるなら、あなたには才能があるわ。でもそうでない部分はすべて、他の人に譲らなければならない」と説明した。「まるで自分が、“機械“になったかのようだった。40歳のときに、個人的な“精神的自己”にとっては“高いレベルで機能している部分”では十分ではないことに気づいたの。」

女優としての "愛 "はあるものの、自分の人生には "触れていない"、"管理していない "部分が非常に多いことを改めて強調した。「私は、自分の人生を自分で管理できるようにしたいと思っていました。目隠しをして、常に "Go!Go!Go!"という感じではなくね」よりシンプルな生活を受け入れた後、ディアスは「これで"すべて"だわ。」と感じているという。

ディアスはまた、グウィネス パルトロウとの対談の中で、女優業からの引退について次のように振り返っている。「最終的に“自分を大切にしていた”から、魂に平和が訪れたのよ」 と語っている。 - AUGUST 13, 2021 THE Hollywood REPORTER -

『 ニュースのよみかた: 』

“引退”した国際的な成功者のキャメロン ディアスが、女優を続けるなら人生のその他すべてを他人に譲る必要がある、女優を離れて“その他”を取り戻した、という記事。

彼女は楽しんでおり、“女優業”を謳歌しているように観えていた。充実した人生を選ぶために“女優業を捨てる”、なんて常識的で正しい判断だろう。

想い返せばわたしにとって彼女の最高傑作は、「悪の法則:The Counselor(2013)」であった。撮影の休憩時間中キャメロンに瞬間現れる“温度ゼロ”の瞳を、目の当たりにすることができる。彼女は、強い。

本人も語っているとおり“女優”とは、人生の全てを捧げるべき生き方である。幸せな人生を望むなら必ず、引退すべきなのだ。引退したいま彼女に、わたしは最大の敬意を表したい。

余談だが、映画監督、プロデューサー、脚本家も同様だ。幸せを望むことは、職責への謀反である。クルーの兼業は許容されるただし、一流になる可能性は無い。

『 ルールは無いが、マナーは絶対。 』

時代は“正直な自然体”を求めている。「ストイックな創作人生」などというゴリゴリのギラギラは犯罪者的な恐ろしさこそあれど、時代に則しているとは言いがたい。むしろ、逆行している。

アーティストたちは業界を恐れながら生き、若手たちは先輩に学んだ。しかし世界が一次停止したわずかこの2年間で、世界中のあらゆる“業界史”にはピリオドが打たれた。歴史が最適化を続けた「ルール」という方程式は崩れ、王道という黄金律は消滅した。いまアーティスト同士それからマーケットを介した観客との意識を紐付けているのはルールでは無く、「マナー」である。

いかなる状況をも越えて機能するマナーへの求めは、無視することができない。現代が求めている「正直な自然体」とは時に絶対的な愛のみならず、“無慈悲の残酷”をも内包する無限領域である。アーティストはそのプラットフォームに提起すべきメッセージを発信することとなるそのためにはどうあっても、ストイックの刃をさらに研ぎ澄まさざるを得ない。世との乖離を受け止めて、全ての幸福とトレードオフに生み出す作品であることが、「マナー」なのだから。


『 “等身大”という嘘を越えて 』

平成の世までまことしやかに通用していた、「等身大の自分を公開」という嘘がある。SNSが生んだ自己承認欲求の爆発でありグロテスクな虚飾披露習慣であったわけだが一方で、現代が求めている「正直な自然体」との混同が発生していることに、注意しておきたい。

「等身大という嘘」は、見栄を信じさせようという作為である。
「正直な自然体」とは、美しさも醜さもありのままの本質である。

作品のために感情を扱うアーティストの多くは保護フィルターを解除しており、デリケートで傷つきやすい。もっとも実写映画界のスター俳優やプロデューサーは比較的ダメージに強く、アニメーターなどは少年ほどに繊細だという傾向の違いはある。しかし一部には、「正直な自然体を演じるアーティスト」というモンスター層が存在する。それは悪意ではなく、臆病さからくる保身である場合が多くまた、気を抜けば創作活動に挑む誰もが墜ちてしまう危険領域である。抗えない自身に気付いたなら、自粛も検討すべきである。

表現者の純度を保守すべく、「嘘に過敏」でいる必要性が高まっている。

『 編集後記:』

人生初のサイン会に臨んだ、国際的なアーティストを観ていた。ずらり並んでいたのは幼い子供たちで、親の尻の影から片顔をのぞかせているかとおもえば受け取ったサインを抱いて幸福を爆発させ。サインを書いているアーティストもまた手汗を拭いながら、子供たちにかける声も消え入りそうに。

なんて美しい世界、なんて眩しい純粋。
あぁ、わたしは幸せを求めてしまいそうで。

絶対的な愛と無慈悲の残酷の狭間で息を潜めながら、映画製作の現場へ帰るとしよう。では、また明日。

■ 太一(映画家):アーティスト業界情報局 × 日本未発表の国際映画業界情報 あるいは、 監督がスタジオから発する生存の記