創作活動への責任
創作が自由なのは、趣味のうちまで。作品は完成後に一人歩きし、その過程で大勢の関係者を巻き込みながらやがて、命を宿す。作品は歩き続け、道を作る。その先に待つのは、あなたの想定通りの世界だろうか。作家に、創作活動への責任はあるのだろうか。
--------------------------------------------------------------------------
太一(映画家):アーティスト業界情報局
×
日本未発表の国際映画業界情報 あるいは、
監督がスタジオから発する生存の記
--------------------------------------------------------------------------
『 創作活動への責任を、意識しているか 』
「わたしの作品」、という表現がある。学生クリエイターや社会人作家そして、業界の頂点に君臨する巨匠が用いる言葉だ。一般的な、プロフェッショナルとして作品を手がけている作家たちでは意図的に、使わない傾向がある。
規定はないが、漠然とした区分が存在しているので解説してみよう。なお本記事は「創作活動への責任」について、の解説である。
「創作物への責任」は法が定める範疇であるので、語らない。なぜなら、「“芸術は爆発” かもしれないが、都内で爆発させる火薬は芸術ではない。」などと正論ぶったとする。花火大会はどうだろう。いらっしゃる度に都内を壊滅させるゴジラは反社だろうかなどと、規定できないためである。
では“創作活動への責任”を、考察していこう。
あなた発のゼロイチ企画であり他から、労も出資も得ていないなら、それは“あなたの作品”だと言える。ただし自分発信以外で、それを発表したり販売したりしようとすればその過程で責任が生じるのだ。
発表を取り扱ってくれたメディアは、作品のオリジナリティと権利が包括的にクリアされていることを前提としている。販売協力社は相互利益のために発売と販売の、区分を明確にする。あなたは自身の作品を世に知らしめた瞬間、その作品の保護者である。その意味で、作品は“我が子同然”、という表現は相応しい。
この記事を読んでいるアーティストのあなたなら既に、「集中を制御する」ことで魅力的な作品を生み、「やらない努力」で無駄を廃した徹底的なコダワリを貫き、「伝える覚悟」の上で正しい表現方法を選択しつつ、「所有はリスク」だと理解した最先端の身軽さで、「クリエイターか、プレイヤーか」を読み誤ることなく、「アーティストにとっての弁護士」というパートナーの監修を経てなお、「受賞する、メディアに出る、その条件」に則した最上級のアプローチをみつけている。
創作責任全般への知識と経験がない学生クリエイターが「わたしの作品」と言ってしまうのは、まだしかたがない。
しかし、
社会人生活を送りながら創作活動を続けている作家が発するこの表現には、意図的な主張が含まれることが多い。片手間の創作だったり、捨てない夢への挑戦だったりするわけだが、その作品にこめた想いは大きく、強い。
『 “社会人クリエイター” というハードな道 』
時にメディアや配給、協賛各社から“リスク”だとされて取り扱いが破談になることが多いのも、このケースだ。経験と常識を踏まえて生み出される社会人クリエイター作品の多くは、とても出来が良い。そして、取り扱い難く、揉め事を生み、世に出る機会は圧倒的に少ない。エビデンスが無いのだが、35年の映像業界経験で見聞きしてきた状況だ。バイト生活や他部署で生計を維持しながら創作に打ち込むフリー クリエイターと比較したなら、世に出る社会人クリエイター作品は、半分以下なのではないだろうか。個人的には、1/30以下だと感じている。米国には、社会人クリエイター作品を絶対に取り扱わない、という会社すら存在する。
それは先述したような、コダワリの強さや想いの取り扱い難さ、だけではなく、“業務区分”という実務上の仕組みを納得してもらえないことに起因しているのだ。
『 業界の構造 』
「原作・脚本・撮影・監督・編集・製作=※監督名」のような作品を、見かけることがあるだろう。なんなら、主演と音楽も兼ねているがそちらは、構わない。ところが、「原作・脚本・撮影・監督・編集・製作」それぞれには、専門の部署どころか業界が存在しており、そこには映画誕生から126年間の苦闘が導き出したルールとマナーが存在するのだ。契約や法律よりもはるかに重い、「業界ルールとマナー」だ。
『 業界ルール と マナーの働き 』
大作の場合は、誕生過程が既に分業から派生しているために意識せずとも、業界ルールとマナーが守られている。一方、インディペンデントに代表される一般的な小作品は、無から突如として誕生してしまう。業界ルールとマナーを守る前に、各部署の業務を飛び越えて、誕生してしまっていることが多いわけだ。するとどうだろう、誕生した作品はビザを持たない渡航者のような状態になり、各国のマーケットを自在に出入りできないことも多くなるのだ。創造主は主張する「わたしは全てを担当し、成功させた。作品は他の大作と同等、正当に扱われるべきだ!」と。残念ながら、その主張は方向違いなのだ。“わたしの作品を採用しろ”を理解させるためには貴方自身が、その他の、業界ルールとマナー通りに並んでいる他の作品に対して、“わたしの作品は貴方たちの作品に優先される価値がある”と、証明することが必要だ。それが発表の場でのルールであり、マナーなのだから。
『 まとめよう。 』
一般的な、プロフェッショナルとして作品を手がけている作家たちが意図的に、「わたしの作品」という言葉を使わない理由が、そこにある。
作品は、自分以外の大勢が手がけて初めて世に知らしめることができた皆の成果であり、作品を“完成”させたのが自分ではないことを、理解しているからなのかもしれない。
「わたしの作品」だと言い切れなくなってからが、
“ 作 品 ” なのではないだろうか。
では、巨匠が「わたしの作品」、と発言するのはどうなのか。いいのだ。巨匠、なのだからナンの問題も無い。あぁ、ところで。
まだ日本に入っていないニュースをお知らせしておこう。
■ 最新国際News:オスカーで注目されている中国が、自国内で情報を規制中
ハリウッドの賞賛を集めてきた中国映画だが、中国の政治部は同国民が喜ぶことを妨げている。多数の高評価が集まる中でも注目されいてる中国生まれの女性監督クロエ ジャオの新作映画「ノマドランド」は、6つの歴史的なノミネートを獲得している。しかし、ジャオ監督は10年前に米国の雑誌インタビューに引用した短文が“中国民主主義を中傷した”と判断され、中国政府の怒りを買った経緯がある。中国政府はこのオスカーの式典も、敏感に捉えている。中国当局はオスカーの生中継を禁止し、受賞イベントに注目しないように、と働きかけている。他にも、ベストショート部門でノミネートされた映画「Do Not Split」は北京による侵略に抗議する香港の主張作品であることから、中国の検閲官は本作に言及する一切の中継を許可していない。評論家のYu Yaqin氏が語る。「中国の人々はクロエ ジャオや他の傑作を讃え、祝うでしょう。中国映画が米国に認められること、それは100年前からの中国人の夢だったからです。中国の進歩は民主主義的な期待を与えましたが、誤った方向に向けられています」2週間前、ジャオ監督は「中国の監督!」「中国の誇り!」として地元メディアから広く称賛されてきたが月曜日以来突如、彼女のオスカー獲得への議論は消滅。映画「ノマドランド」の4月リリースは削除され、ポスターと関連のハッシュタグ検索は封鎖された。劇場公開は不可能になる可能性がある。ネット上のコメントはたった一日で「中国の誇り」から「反政府要素」に書き換えられました。一方、中国政府系時報が祝っているノミネート作品がある。映画「ベターデイズ」だ。中国のネット小説が原作で、香港の二大スターが主演するこの北京語の映画はたまたま香港人が監督した中国映画として、一切の制限を受けていない。中国の主要な評価プラットフォームで10点満点中9.4、9.2、8.3の高いスコアを獲得している本作だがしかし、本作がノミネートされたことにショックを受けている層と、嘲笑している多くの人々が存在してる。本作は商業寄りの作品であり、アートハウス寄りの他の作品よりも、優れていたとは言えない。「中国の視聴者を巻き込むためのアカデミー賞の策略なのでは?」と示唆されている。なにより、この投稿が論争を生んでいるのだ。「東野圭吾の傑作小説“容疑者Xの献身”、ノミネートおめでとう!」と。映画「ベターデイズ」は2005年発表の東野圭吾小説「容疑者Xの献身」に酷似しており、論争が続いていた。「この盗用映画がそれでもノミネート!?」「東野圭吾さん、おめでとうございます!」本作のツァン監督がコメントしている。「映画を観た人は、それが本物の作品だとわかるだろう。」この思惑が上手くいけば、中国のファンは同調するのだろう。- MARCH 18, 2021 VARIETY -
『 編集後記:』
重いニュースを取り上げた。
※この手の情報は再掲載されていく中で意図的な改変が行われ、薄まっていく。可能な限りそのままのニュアンスを残したつもりだが、翻訳時点で確実にわたし自身の意図が加味されることを踏まえつつ一読いただくことが重要だ。
さて本件、特に国際記事の後半部分。盗作疑惑について、だ。
アーティストの創作活動は少なからず、必ず誰かの影響を受けている。必ず、である。ならば世界中の作品はすべて、誰かの作品のパクリなのだ。
などと。是非、否定してみて欲しい。とても興味がありまた、論破できる解が欲しいのだ。なぜなら、“ラスコー洞窟の壁画”を観て想う。20,000年前の後期旧石器時代のクロマニョン人によって描かれた数百の馬、山羊、羊、野牛、鹿、かもしか、人間そして、幾何学模様、刻線画、顔料を吹き付けた人間の手形、それがこの世に“突然出現”したなどと信じたくないから、だ。ラスコーの壁画を想い出して欲しい。コレは何だ!?
野牛だと言う人がいる。鹿がいる、とか馬も、などと。そんなことはどうでも良い!
“輪郭線” はどこから誕生したのだ!
地球上の実写界に、輪郭線は存在しないのだ。なぜ彼らは動物を壁面に描写しようとした? なぜ平面に表現できると気付いた? なぜ、面を塗り分けずに先ず、“輪郭線”を描いたのだ!そこまでに長い年月、せめて数百年のパクリ文化を経て、見よう見まねの結果に描かれた壁画だと信じて、わたしは安心したいのだ。
ラスコーの壁画がフランスの西南部にあり、リュミエール兄弟が “突然” 世界最初の映画を誕生させたパリのグラン・カフェまでの距離がわずか500㎞、車で6時間に位置している偶然など、考えたくも無いのだ!
動悸を味方に、静まりかえった映画製作の旅へ戻るとしよう。
■ 太一(映画家):アーティスト業界情報局 × 日本未発表の国際映画業界情報 あるいは、 監督がスタジオから発する生存の記