映画監督は、事件スクープをもっている。:『アーティスト黙示録②』
「映画」というものがある。「コンテンツ」だったり「商品」や「広告媒体」だったり、「芸術」の場合もある。“創作”という宇宙の向こうから、現実の世界を眺めてみる。
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太一(映画家):アーティスト業界情報局
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日本未発表の国際映画業界情報 あるいは、
監督がスタジオから発する生存の記
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『 服用上の注意 』
「映画」というものの捉え方は、観客によりさまざまだ。
少なくとも、今日この瞬間に地球上から映画が消滅しても、人類の存続には、なんの影響もない。“娯楽”というジャンルに、認定されているためだ。
そうだとは想うが、認めない。
これがメディアではない“個人発信”の利点、社会への障害だ。
社会常識と照らすような方にはお勧めしない。
わたしと世界中の何人かにとって映画は、人生に優先される存在。
地球より大切だ。本当なのだからしかたがない。それを踏まえた方だけ、読み進んで頂ければ幸甚だ。「映画という武器」を、語ってみる。
では、はじめよう。
『 映画が創られる理由 』
社会を「事実」だと認識している立派な常識人には申し訳ないが、実体を偽る見栄と過剰な自意識が創りあげた社会は、虚構だ。事実ではなく、それぞれが自分たちなりに納得している「真実」に過ぎない。
理想こそが現実であり、社会は虚構だ。
「映画という理想」は、「理想という正直さ」に裏付けられている。映画とは、正直なものなのだ。欲望や批判の精神が反映された結果アーティストたちはその想いを自身の中に留めておけなくなり、「映画企画」という不要不急なものを生み出してしまう。
映画企画の中にはストーリーがあり、それを導くテーマが含まれている。“理想”という現実を押し通そうとしながら企画開発を続ける中で、“社会”という虚構が、可能性を削り取っていく。これが、「映画製作」だ。
『 種類別、映画の役割り 』
ここで映画は、2つに分類される。
「ドラマ映画」と「エンターテインメント映画」だ。
※ 読むのを中断するなら、ここだ。
ここから先は明らかに、「ドラマ映画」をひいきした偏向アーティストの妄言に突入していく。
映画製作の過程で“理想という現実”が大きく削られてテーマを失い、ストーリーを装飾することに注力した作品を、「エンターテインメント映画」、という。映画の脚本は、“1ページ1分”を基本として執筆される。
重厚な人間ドラマの場合、200ページを超える場合がある。人情の機微を映像で切り出すためには、語るべき内容が多くなるためだ。観客のココロを揺さぶることに成功した映画は、“芸術”だと認められる。数ある“動画”の中で映画が頂点に君臨しているのは、ブランド力による。この「映画のブランド性」を生み出しているのが、「ドラマ映画という芸術」である。
一方、「エンターテインメント映画」のストーリーは、短い。2時間37分の超大作エンターテインメントSF映画に例えれば、脚本は27ページであった。“27分”の物語をド派手な装飾で映像化し、157分間の映画にしているわけだ。内容はシンプルで、面倒な前知識も必要としない。“娯楽映画”と形容されるように、観客を夢中にさせることが目的だ。そのため、製作からマーケティングに至るまで全てのプロセスに大勢の観客を集める仕掛けが満載され結果、巨大な収益を生み出していく。この収益によって映画界は存続しており、ドラマ映画を含む映画を製作、発表することができ、成功者が金持ちになり、一般人を圧倒することでニュース性が生まれ、「映画のブランド性」が上がる。
つまり、「ドラマ映画」と「エンターテインメント映画」はそれぞれまったく異なる意図で製作されつつも、同じ目的を達する両輪なのだ。
『 それでも頑固な、アーティスト系映画人 』
強行に映画を肯定しながら生きているわたしたち映画人は、映画を「芸術」だと想っている場合がある。「エンターテインメント映画」を愚弄しながら、観客たちからは想像もつかないだろう大きな恩恵に預かっている。
なんなら、エンターテインメント映画が無くなってしまったなら、「ドラマ映画」は創れなくなる。芸術どころか映画は、世捨て人の趣味に成り下がってしまう危険性すらあるのだ。
それなのに今日もエンターテインメント映画を否定しながら、アーティスト生活を満喫し、社会を嘲笑しながら、理想という現実世界から映画企画を放出し続けている。そこにはストーリーがあり、テーマを含んでいる。
『 映画企画、という2つの物語 』
テーマは時に、社会常識から逸脱する。いわゆる道徳と常識をすっ飛ばした行動力で“取材”を続けているアーティストたちは、踏み込んではいけない場所に到達してしまうことがあるのだ。そこは、ジャーナリストの領域。
エンターテインメント映画が観客を夢中にさせる“娯楽”であるのに対して、ドラマ映画は、観客の感情を揺さぶることが目的。それを追求した結果、まだ社会で公になっていない事件、事故、組織の闇そして、国家が描いている裏ストーリーを知ってしまうことがあるのだ。
常識的な社会人なら、気付かぬふりで退散する場面。
映画人は、突き進んでしまう。
アーティスト系映画人はそれを、映画企画にしてしまう。
映画企画は、こうして誕生する。
あぁ、ところで。
まだ日本に入っていないニュースをお知らせしておこう。
■ 最新国際News:未解決事件を元にした映画は、事件が解決した後に影響を受けるのか。映画「殺人の追憶」:ポン ジュノ監督
実際の未解決犯罪に触発されたすべての映画は、同じ課題を残す。事件が解決したなら、映画の魅力は失せるのだろうか。1986年から1991年にかけて韓国の田舎の都市ファソンでおきた連続殺人事件の悲劇は、2003年にポン ジュノ監督作品「殺人の追憶」を生んだ。この傑作は事件のみならず、独裁政権時代の恐ろしい韓国社会振り返ることによって、同国の闇を描いている。イ チュンジェという男が2019年、映画で描かれている9つの殺害すべてを自白した結果、映画の中で語られた意図の幾つかは否定されることとなった。犯人が逮捕される前、映画の製作中に、ポン ジュノ監督は語っている。「映画を通して、私たちの国と社会の限界に挑戦したかった。殺人犯が国をあざ笑っているように感じたんだ。それから、傑作映画には裏の物語があるものですよ。」真犯人のイ チュンジェが逮捕後に証言している。「わたしが犯人なのか、まだよく判らないんです。」 - APRIL 20, 2021 THE Hollywood REPORTER -
『 編集後記:』
「傑作映画には、裏の物語がある。」まさに、そういうことだと想う。
映画監督たちの多くは、社会を絶句させるスクープを、数本は秘めているはずだ。取材をしないタイプの監督は、“監督”と呼ばれている作業員であるので、除外して話しているが。映画監督が社会派映画を企画したとき、その背後には“裏の物語”が存在してる。映画の中で語られる世界そして、映画を生むために活用された、世に知られていない「現実の世界」。
世界最多のスクリーン数を有する中国が、自国の映画館に“プロパガンダ映画”の上映を義務づけた。さらに、その映画に観客を誘致することを条件付けた。意図を隠さないことにも驚いたが、未だに映画がプロパガンダとしての力を持っていることを国家が認めている事実に、胸躍った次第。平和な世界は、誰もが幸福を求めなくなった先にあるのかもしれない。はたして、違うかもしれない。
誰かの苦悩が誰かの勇気になるなら、苦を引き受ける映画製作の現場へ帰るとしよう。では、また明日。