BEBERICAの『What’s Heaven Like?』を見て
2018年12月20日 吉祥寺シアター
BEBERICA
あかちゃんとおとなのための演劇公演
『What’s Heaven Like?』
構成・演出・舞台美術:弓井茉那
乳幼児を対象に演劇公演やワークショップを行っているBEBERICAのゲネプロを見学させてもらった。そのとき、どんなことを経験したのかを記述してみたいと思う。ゲネプロは大人だけの参加であったが、乳幼児がいたときに演者がどうやってアプローチをしているのかは想像できた。また大人だけであったがゆえに、乳幼児だったころの感覚を想起するような演劇として楽しむことができた。
吉祥寺シアターの3階にある部屋の片隅に白いテントが張られている。テントのなかに入ると、そこはベージュの幕で囲まれていて、自分が一つの空間に包まれていることが感じられる。天井を見上げると、カラフルな毛糸の入ったボウルがぶら下がっていて、一本ずつ紐が垂れている。鼻をかすかに爽やかな香りがくすぐる。ここで何が始まるのだろうとそわそわしていると、代表の弓井さんが話はじめた。それは乳幼児の感覚の発達についてだった。たまに母親の胎内にいたときの記憶が残っている子がいるが、そういう子は3才ほどでその記憶がなくなっていく。胎内の世界は一体どんな感じだろうか。子どもは胎内にいるときから聴覚が発達していて、音を聞いている。また触覚や味覚などの感覚をある程度感じているのだそうだ。公演名にあるHeavenとは、胎内のことを意味しているのだろう。ベージュに包まれた空間は母親のなかにいるような安心感がある。
今回、最初にワークショップがあって、それから流れるように上演がはじまる。まず上記したような前置きがなされる。こうした前置きは乳幼児演劇にとって大切だ。お客さんは乳幼児だけではなく、当然ながら保護者がいる。乳幼児がリラックスして演劇を体験するには、保護者がリラックスしている必要がある。これからどのような演劇がはじまるのか、上演のあいだどう振る舞えばいいのか。ふつうの演劇であれば、観客は自分の席にじっと座って黙って舞台の方を眺めることが求められるが、乳幼児演劇ではそうではない。自由に動き回っていいし、どこを眺めても構わない。気持ちよくなれば寝転がってもよい。保護者とこうしたことが共有されているのと、されていないのとでは上演の質は大きく異なるだろう。
ワークショップでは、挨拶し合うワーク、真似し合うワーク、耳を澄ますワークが行われた。まずはふつうに挨拶をして、それから肘や膝などで挨拶をする。保護者や演者、それから乳幼児が交流することで、お互いの警戒心を和らげられる。真似をし合うワークでは、一人の動きをみんなで真似することで、全体で一つの動きが生まれていく。こうしたワークによって、これからみんなで一つの上演をともにつくり上げていくという雰囲気が生まれてくる。耳を澄ますワークでは、観客が目を閉じ、演者がその周りで手を使ってさまざまな音を立てていく。ふだん私たち大人は視覚が中心の世界で生きているが、このワークによって他の感覚にも注意が向くようになる。音は単に音としてだけではなく、そこから演者の身体的な動き、手が触れているマットや幕の質感が感じられる。
ワークショップ・パートは、お互いが親しげに関わろうとする雰囲気のもとで行われた。これまでテント内の半分の面は開かれていたが、いよいよすべての幕が閉じられた。二人の演者がゆっくりと幕を閉じる様子は何かの儀式のようで、ワークショップとは異なることがこれから起こることが分かった。テントの隅には波紋音を演奏する男性、赤ん坊のような声で歌う女性がいた。二人の演者は真ん中に立ち、それからゆったりとテント内を移動した。観客のポーズを真似したり、手を蝶々のようにひらひらさせたり。あるときは観客の頭や肩の上を手で駆け抜け、あるときはワークショップのときのように手で音を立てて回った。とくに注目すべき焦点のようなものはなく、自分は一つの空間のなかであらゆる出来事のなかに囲まれて、そのなかで漂っている気がした。
マットの下にはフェルトで作られた生き物が隠れていた。演者は一匹ずつそれを引き出して泳がせた。それからお客さんの方に近づいてその生き物をゆだねていった。その場でゆらゆらさせる人もいれば、立ち上がって悠々と泳がせる人もいた。赤ん坊だったら、その場でブンブン振り回すか、早々に興味を失って床に投げやっていたのかもしれない。今度はとても長いフェルトの生き物がでてきた。それは観客のあいだを縫うように、観客の肩の上に通された。狭い空間だったので、この長いフェルトの存在感は大きかった。
二人の演者は、天井にかけられていたボウルの中の毛糸の紐に手にとり、それをお客さんに渡していった。天井の紐が何を意味しているのかは何となく想像できた。紐が渡し終わると、360度、天井のてっぺんから観客に向かって紐が放射線状に垂れていた。演者は優しそうに紐の束を二人で抱きしめたあと、ハサミを取り出した。これから切られるのだと思った。そしてこの紐は自分のへその緒を表していることが分かった。紐は上の方で切られたが、それでも紐を切るときのジョキという音がかすかに聞こえた。紐だから手ごたえがあり、そのときの感触が想像できた。へその緒が切られたときの気分はどんな感じだったのだろう。
すべてのへその緒が切られると、入口の方のベージュの幕が開けられた。へその緒が切れたから、外に出たのだ。それから、部屋のドアも開けられ、外気が入ってきた。風が冷たかった。空気はひんやりとして気持ちいいが、もはや自分は空間に包まれていなくて、外に向かってさらされていることが分かった。それは不安と冒険心が入り混じった感覚だった。外からはシャボン玉が飛ばされた。シャボン玉が日に当たって光って見えた。私は目が悪いので、ぼんやりとしていたが、だからこそ光がにじんできれいだった。赤ちゃんがおなかから出てきて、はじめて外の景色を見るときもこんな感じだろうか。演者はシャボン玉を吹きながら、部屋のなかへ、それからテントのなかに入ってきた。部屋のドアが閉じられて、それからテント内の幕が閉じられた。最後に二人は寄り添い合いながら眠った。ようやく外の世界に出られたのに、どうしてまたテントのなかに戻っていくのだろう。
それから数日して、友人にアタッチメント(愛着)の話を聞いた。子どもは養育者との間にアタッチメントを形成することによって安心感や信頼感を得て、そこを安全基地のようにすることで外界への探索を行うようになる。生まれ出されたばかりの子は、ひとまずアタッチメントを形成する必要がある。このアタッチメントの考えをふまえると、『What’s Heaven Like?』の上演が、外に開かれたところで終わりとなるのではなく、テント内に戻って演者が二人寄り添うようにして眠るところで終わる理由がよく分かる。Heavenとは、胎内のことでもあり、安心できる安全基地のような場所でもあるのだろう。
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