ドイツの”口閉じ”パフォーマンスに感じるちょっとした居心地の悪さの正体
私は大学でドイツ語を専攻。ドイツ文学にも親しみ、ドイツで短期的に仕事をしてその社会を見たこともある。その著者が今回のドイツ代表が、日本戦の前に「口を閉じる」行動をしたことにどこか居心地の悪さを感じた。それが何から来るのか正体を探ってみた。
目次
変わるドイツ社会
「寛容」のメルケル時代
カタールW杯の問題
居心地の悪さの「正体」
変わるドイツ社会
私がドイツ語を始めた頃は「移民国家」ではなかった。
当時はちょうど2006年の母国開催のワールドカップ開催で、下馬評を覆して3位になったドイツ代表を歓迎するため、街なかには「ドイツ国旗」があふれていた。
ナチス・ドイツの経験から「ナショナリズム」を標榜することに慎重になっていた現地のシニア世代はこの光景に非常に驚いたというのを聞いて、こちらも驚いたのを鮮明に記憶している。
当時のチームの主力選手にも移民系の選手はいた。W杯歴代最多得点のクローゼ選手に、この大会で一躍スターダムを駆け上がったポドルスキー選手はポーランド系の移民だ。当時はまだアフリカ系の選手はそう多くはなかった。
「移民国家」ではなかったドイツ、それから10年以上が経ち、今やドイツ代表を見ればわかるように、国も「移民大国」になったことを認めている。欧州で「ひとり勝ち」とも称されてきたドイツの過去10年近くにわたる経済成長は、こうした移民に支えられてきたといっても過言ではない。
人口増加フェーズにあるが、増えているのは移民を背景に持つ国民。白人の人口は減っているのだ。
「寛容」のメルケル時代
ドイツの「移民受け入れ」には第2次世界大戦後の長い歴史がある。まず戦後の復興の人材確保のためにトルコやイタリアから確保してきたのが「ガストアルバイター(出稼ぎ労働者」だ。
「ガスト=ゲスト」だったはずが、そのうちに子どもや家族を呼び寄せるようになり、この移民人口がドイツ国内で膨れ上がった。
ただ、フランスが共和国への中世を誓わせて「フランスナイズ」、要は「同化政策」を進めてきたのとは違い、ドイツはこうしたガストアルバイターにドイツ語教育を強制することもなく、ドイツ化させることもなく、放任主義的な政策をとった。
しかし、その結果、ガストアルバイター系で特に多いトルコ系移民の労働市場への統合は進まず、いまや3世や4世となっている世代では失業率も高いままとなってしまい、社会問題となっていたのだ。
(ただ、トルコ系のおかげでドイツの食文化に「ドネル・ケバブ」という革命が起きたのも付記しておきたい)
これが変わるきっかけとなったのが、欧州の女帝とも呼ばれたアンゲラ・メルケル政権の移民対応だ。
2010年からすでに長期化しはじめていたシリア内戦を受けて、大量のシリア難民がヨーロッパに押し寄せた。東欧の国々がこうした難民の受け入れを拒否するなか、当時のメルケル首相は移民を歓迎したのだ。
欧州で右傾化が進もうとしていたなか、「寛容な世界」への希望の光だった。そして、このときドイツは過去のガストアルバイターの受け入れの無策を反省し、難民として受け入れた人たちへのドイツ語の習得を促進し、労働市場への統合を進めたのだ。
ユニクロのベルリン店で働くアブドゥル氏はこうしたシリア難民のひとりだ。
こうしたドイツの対応はすべて過去のナチスの歴史に根ざす。ナチス台頭によって当時のドイツからは多くの人が脱出し、他国に受け入れてもらった。今度は自分たちの番だ、というわけなのだ。
その一方で、この大量の難民受け入れを機に台頭したのが、移民排斥を訴える右派政党「ドイツのための選択肢」だった。各地で移民排斥を訴える暴動も起きたのだった。
時を同じくして、ドイツ国内で増えたのが「イスラモフォビア」だ。
DWの記事によれば、イスラムもドイツの一部だと考える人の数は減り、「よそ者」とみる考える人が増えているという。イスラム教とや礼拝所モスクが攻撃されることも後を絶たない。これはユダヤ人に対する差別についても同じ事が言える。
あのホロコーストから70年以上がたったにも関わらずだ。
寛容の時代から一転、うまくいった事例もあるとはいえ、急激な移民の大量受け入れが社会のなかにさまざまな軋轢を生んでいったのも事実だ。
その根本の部分では、キリスト教的な価値観+西欧化された個人主義的な自由の気風と、時に保守的とも受け取られかねないイスラムの文化が合わない部分もあったと考えられる。ただ、イスラム教はそもそも平和の宗教だということは強調しておきたい。
カタールW杯の問題
そこで今回の議論の主題となるのが、中東で初めてとなるワールドカップを開催するカタールだ。
イスラム法に基づく統治を行っているカタールでは、イスラム教で同性愛が禁止されているように、国でも同性愛を禁止している。
BBCによると、次の用にも報じられている。
ヨーロッパでも最近まで同性愛は精神の病とされていたのも事実だ。WHO=世界保健機関が、同性愛を国際疾病分類のなかで精神病のカテゴリーから除外したのは1990年だ。
なお、トランスジェンダーについて国際疾病分類から除外されたのは2020年。ほんの2年前となる。
ただ、今回のワールドカップが性的マイノリティの権利や人権が守られていないカタールで開かれるとあって、冒頭のドイツ代表の抗議パフォーマンスとなったのだ。
私はアライだ。性的マイノリティの人たちの権利が守られ、例えば同性愛者というだけで不当な扱いを受けてはいけないと思っている。同性愛の友人もたくさんいる。
ただ、今回のドイツチームのパフォーマンスにはどこか居心地の悪さを感じたのだ。
居心地の悪さの「正体」
これまでもスポーツの場で、アスリートたちが人権問題に対し、声を上げてきたことは多々あり、私はそうした声に感銘を受けてきた。
一番記憶に残っているのは、2000年のシドニー・オリンピック。女子400メートルで優勝したキャリー・フリーマン選手は、ウイニングランで自身の出自であるアボリジニの旗を掲げた。
オーストラリアの先住民族アボリジニの人たちはおよそ200年前からオーストラリアの地に暮らしていたが、入植者として入ってきたイギリス人にスポーツハンティングの対象にされた。近代になってからも差別的な政策は続き白豪主義のもと、子どもたちは親から引き離されて白人化が進められた。
こうした政策の過ちについて、オーストラリア政府が正式に謝罪したのは2008年。キャシー・フリーマンはこうした過去の歴史を踏まえて、自分たちの尊厳を見せるためにアボリジニの旗を掲げて走ったのだ。あくまで自分が母国で置かれる状況に抗議するためにとった行動だった。
また、2016年のリオ・オリンピックでは、マラソンのエチオピア代表フェイサ・リレサ選手が、母国での民族弾圧の状況に抗議するために、頭の前で十字を組んでゴールした。
新型コロナのために1年遅れでの開催となった東京オリンピックでは、選手の抗議という形ではなかったが、陸上女子のベラルーシ代表のクリスティナ・ティマノフスカヤ選手が、チームの運営に不満を公言したところ、強制帰国させられそうになったが、出国を拒否し、ポーランドに亡命した。
一方、今回のドイツ代表の行動。人権保護というユニバーサルな問題ではあるが、他国の問題でもある。カタールの選手が声を上げたわけではないのだ。
これが今回私が感じた居心地の悪さの正体なのだ。
イスラモフォビアが蔓延するドイツ。イスラム教徒やユダヤ人への差別が広がっている。
そうしたなかでもこうした抗議パフォーマンスを行われても、「所詮はヨーロッパのイスラモフォビアの一種なのでは?」と感じてしまうのだ。
ドイツは特に、ウクライナへの軍事侵攻を続けるロシアからの天然ガスの輸入に依存していた。今は調達先の多角化を進めていて、カタールとは数年後から天然ガスの供給を受ける合意を政府が交わしたばかりだ。
「カタールでの性的マイノリティ差別には抗議しつつ、高くなる電気代を抑制するためには、その差別が蔓延する国からの天然ガスは使うのか?」と問いかけたくなってしまう。ドイツ政府にも抗議しろよと。
ドイツ代表では前回のワールドカップで、トルコ系であるメスート・エジル選手がトルコ系の選手として初めて代表キャプテンを務めた。
しかし、エジル選手は2018年、突然代表からの引退を発表した。理由はトルコ系移民でありイスラム教とである自身への人種差別だ。
カタールでものドイツ代表のパフォーマンスを受け、ドイツのTwitterでは「エジル」がトレンドワードに入っていた。それは、今回のドイツ代表の口を塞ぐパフォーマンスが、エジル選手が人種差別を受けていたときになにも行動を起こさなかった連盟のようだと皮肉ったものだった。
いちドイツ好きとしては、今回性的マイノリティ擁護のために行動を起こしたドイツ代表の行動が、国内での人種差別の問題にも目を向けるチャンスになって欲しいと思ってしまう。
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