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ゲーテの眼について

「全体に触れて新たな力を得たいなら、微細なもののなかに全体を見なくてはならない。」

ゲーテ『神と心情と世界』


 ゲーテは「眼の人」だとよく言われる。「もの」を非常によく「見た」、という意味である。が、彼の恐るべき点は、眼の人でありながら見たものに捉われていない点にあると私は感じる。そのことが暗示する一般的な真実があるとするならば、最高度に洗練された力はその力から自由になる、ということではないか。

こう書いてみて、ふと私は、中島敦の『名人伝』を思い出した。弓矢の技を極度に窮めた名人は、遂に弓矢を持たずとも、ものを射れるようになるという話である。ものを書くということも一つの手の技だとするならば、真の名人はペンを持たずとも、ものを考えることができるということになる。

そして、これが事実そうであることは、古今東西の大家が多くの作品を口述で筆記したことが示している。例えば、ドストエフスキーは『罪と罰』などの大長編を口述により生み出したと聞くし、ゲーテも同様に『親和力』その他の多くの作品を口述によって詠うように生み出したと言われている。

一般的に書くことは考えることと同じであるように、ゲーテにとっては見ることがすなわち考えることだったのではなかろうか。少なくともその段階に至るまで「見ること」を洗練させた人間であったように感じる。

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