東京砂漠
田舎であるほど人口が少なく過疎だが、人間関係は逆に濃密なものになる傾向がある。だれもがだれもの素性を知っているし、ときには家庭内の事情まで知られていたりする。そうしたところでは、むしろ鬱陶しいまでに濃い人間関係になるのである。
そのような場所では、まれに重大な事件が起きることはあるにしても、いさかいや小競り合いが頻発することはあまり考えられないだろう。それにいつも周囲に人の目があるから、世間のうわさになるような下手なこともできない。だれもが村のしきたりや慣習に従って抑制的に行動していないと、周囲から白い目で見られて生きにくくなってしまうのである。
ところが都会では、人口はすさまじく周密だが、人間関係はきわめて希薄なものである。アパートの隣人の名前は知らない。話したこともない。清掃会社のパートのおばさんが「マナーもなにもあったもんじゃないね」とこぼしていた。公衆トイレの個室のなかは汚物で汚され、ごみの山だそうである。道を歩いていて火がついたままのタバコをポイ捨てし、つばを吐き、空き缶を捨てる。見られていても、どうせ知らない赤の他人である。見ていたほうも、見なかったふりをする。係わり合いにならないことが、都会生活の原則なのである。歌謡曲の歌詞にあるように、大衆社会である大都会は「東京砂漠」である。
アイブル = アイベスフェルトはそのような大衆社会について次のように指摘する。
「個人化された結びつきから無名の大衆社会への発達――これに対してわれわれは情緒的には十分な心構えができているとはいえない。未知の人々とは、知人と同様に結びついているとはけっして感じないし、未知の人々の意味は軽く、彼らに対してわれわれの攻撃性が抑制されること
も少ない。その結果、一般に人と人のつながりが弱くなってゆき、われわれは他人に対して昔の人よりも疑り深くなっている」
未知の人に対する不安や恐怖はどの社会にも見られる普遍的なことであり、「知らない人間は敵である」という判断は生得的なものであるという。そして人間は大衆社会のような、知らない人たちの集団のなかでは連帯感が弱まり、個人は自分のなかに閉じこもろうとする傾向が強まってくる。こうして大衆社会では個人は疎外され、集団は「孤独な群衆」と化す。しかし大衆社会には「よそ者」という存在はない。誰もが誰もに対してよそ者なのだ。
駅の掲示板によく「暴力追放」のポスターや、「マナーの励行」を促すポスターを見かけるが、駅や電車内では暴力行為の発生が多いのだろうか。そうだとしても不思議ではない。都会のなかでも駅は人がもっとも集中する場所である。そして人口の集中、過密という現象にはストレスや攻撃的な緊張を高める作用があるからだ。渋滞している道路などでも、やはりドライバーには混雑現象によるイライラが強まる。
たとえばサルを狭いところにたくさん入れると、イライラしてきて互いに咬みつき合いを始めるという。そしてこの咬み合いは、彼らの仲間としての連帯を破壊する。混雑によるいらだちが高まってくると、攻撃性のほうが連帯感よりも強くなるのである。そしてリーダーたちも含めて、もはや仲間ではなくなってしまうのだ。
「人間を混み合ったところに入れると、やはりいらいらしてきます。わたしの知っている世界で一番混み合った場所は、ニューヨーク市42番街のバスターミナルですが、人々がこれ以上いらついている場所は世界中どこにもありません。誰かに道でもたずねようものなら、とたんにがみがみ怒鳴られてしまいます」(ローレンツ)
ローレンツとともにノーベル賞を受賞したニコ ・ ティンバーゲンも、すでに人間の多くは、種にとっての適正な人口密度を超えてひしめき合って生活していると指摘している。そのような人口の高密度の状態は、攻撃性を絶え間なく挑発する状態であるといっている。
だから最近、すぐに「キレる」大人が増えているといわれるが、それも当然のことだろう。キレるというのは突発的な怒りの爆発であり、衝動的な攻撃性の発現である。都会の混雑現象によるいらいらが、人をキレやすくしている要因のひとつであろう。しかも街中ですれ違うのはまったく見知らぬ人々であるから、攻撃を抑制する機能が働きにくい。だから駅や電車内という混み合った場所は、些細なきっかけで衝突が起きやすい状況にあると思われる。とくに酒が入っていたりすると、衝動の抑制が弱まっているから危険だ。人ごみのなかで肩が触れた、かばんが当たった、足を踏まれたといったことがきっかけとなって攻撃性が解発される。非難の応酬が始まれば、罵りあい怒鳴りあいから小突きあいまでは遠くない。だから駅のような過密な場所ではとくにマナーが求められるし、礼儀の遵守が要請されるのだろう。
都会生活における礼儀とは「路上の徳」なのだと哲学者のアランはいった。「知らない人たちが群れをなして行き来する徳」なのだと。なぜなら「礼儀作法は親密な関わりをもたない人たちのためにある」(アラン)もの、大衆社会のための徳だからである。とくに個人的な関係を結びやすい12人程度までの小集団を超えるサイズの、大衆社会のような無名の大集団においては、マナーこそが集団の秩序や安定を支えている、社会的装置なのである。
(参考文献)
・アレック・ニスベット「コンラート・ローレンツ」木村武二訳、東京図書
・R・I・エバンズ「ローレンツの思想」日高敏隆訳、思索社
・アイブル=アイベスフェルト「愛と憎しみ2:人間の基本的行動様式とその自然誌」日高敏隆・久保和彦訳、みすず書房
・アラン「幸福論」白井健三郎訳、集英社文庫
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