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「市民が武器を手に取る」ことの恐怖と役割

 2022年4月4日、ウクライナ・キエフ近郊のブチャという街で、撤退するロシア軍が多くの市民を殺害したというニュースが流れた。普段着姿の一般市民の遺体が路上に点在しているという、ショッキングな映像が世界を駆け巡った。
 「戦争と無関係な市民が殺された」ことに、われわれのような「戦争と無関係な」市民は恐怖を感じる。亡くなるまで普通の生活をしていた人たちの日常を想像して、胸が痛くなる。
 この「戦争と無関係な市民が殺される」という出来事は、唐突に思えるけれど、理由があるのかもしれない。そこに至るまでの段階があり、起こるべくして起きたのかもしれない。僕は「起こるべくして起きた」ような気がしている。「市民が銃を手に取って戦う」ということの意味を、いまいちど考えたい。

 まず、ウクライナは、市民を戦闘に参加させている。18歳から60歳の男性は、原則的にウクライナ国外に出ることはできなくなっている(参照:https://visitukraine.today/blog/102/exceptions-when-a-man-can-leave-ukraine-under-martial-law)。さらに、望む者には、誰にでも武器が与えられることになっている。(参照:https://twitter.com/ZelenskyyUa/status/1496785547594924032 "We will give weapons to any one who wants to defend the country. Be ready to support Ukraine in the squares of our cities.")
 劣勢側に立ち、住民を含む非正規の戦闘員が住み慣れた街を防衛するこの戦法は、ゲリラ戦である。ブリタニカ国際大百科事典からゲリラ戦の定義を抜粋すると、「優勢な軍事力をもつ正規の軍隊に対して、劣勢な不正規兵力による戦争方式」とある。
 一般市民が参加するゲリラ戦は、ウクライナにおいては「数千万の市民の中に武力と武器を紛れ込ませる」という戦術だ。ゲリラ戦によって、戦力が増えるだけではなく、敵の軍隊には「いつ、どこから攻撃に遭うかわからない」という恐怖を与えることができる。正規の軍隊規模においては劣勢であるウクライナが善戦しているのは、この戦術に寄るところが大きい。

 ただし、忘れてはいけない。ゲリラ戦術は、市民の中に武力を忍び込ませ、市民そのものを盾にするからこそ、力を発揮する。
 『アメリカン・スナイパー』という映画は、まさにそういう映画だった。イラク戦争が舞台となったこの映画では、アメリカ兵はいつ、誰から攻撃されるかわからない。爆発物らしきものを母親から渡され、こちらに向かってくる少年(兵士ではない、一般人の容姿をしている)を撃つか撃たないか、アメリカ軍スナイパーの葛藤が描かれている。ベトナムの戦争証跡博物館で見た写真には、ジーパン姿のようなベトナム人が、軍服を着た外国人に殺害された、あるいは殺害されかけている写真が複数あった。映画『フル・メタル・ジャケット』でも、終盤のシーンで主人公たちは、ゲリラを戦うベトコンの少女を殺さなければならない。

 ウクライナでも、戦争開始の何週間も前から、幼い少女やお年寄りが銃を手に取り、狙撃練習を行う光景が見られた。そのようなイメージは、ロシア軍の若い兵士たちに、心理的な恐怖や葛藤を与えただろう。つまり、幼い少女を見るたびに、「次の瞬間、この少女が隠し持った銃をこちらに向けてくるかもしれない」という恐怖を与えたことは想像できる。
 しかし、そこで潜在的に犠牲になっているのは、ウクライナ国内のあらゆる少女たちであることを忘れてはならない。ゲリラ戦の心理的な意味について、少し回りくどい言い方をしてしまうと、あらゆる少女たちに銃を持ったゲリラの一員である可能性を平等に付与することによってはじめて、銃を持った少女の亡霊がロシア兵の前に立ち現る。それは、母国に残してきた彼らの娘かもしれないし、幼い妹かもしれない。

 市民が戦うゲリラ戦は、その戦略上、非武装の市民と武装した市民の境界を曖昧にする必要がある。「戦わず、かつ戦場に残る」「変わらない日常を送る」という消極的な選択が、敵を錯乱する「撃ってはいけない的」の役割を果たしてしまうことになる。「撃ってはいけない的」は、腕の悪い兵士に、あるいは自暴自棄になった兵士に撃たれる可能性があることを忘れてはいけない。

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