なぜアマゾンのレビューには「帯が破れていました」で星1つが付くのかーー未文明世界の住人たち
アマゾンで本を物色していると、「帯が破れていました」という理由で低評価のレビューをたまに見かける。かなり情熱的なものもあって(注1)、情熱的すぎてそれなりに「いいね」が付いていたりする。グーグルで「アマゾン 帯が破れていた 星ひとつ」とか検索すれば、面白いようにヒットするので見てみてほしい。このような「帯が破れていました」系のカスタマーレビューを「オビヤブレビュー」と呼ぼう。
オビヤブレビューの是非について、アマゾン公式の規約ではどうなっているのだろうか。コミュニティガイドラインによると、「出品者、注文、配送に関するフィードバック」は「禁止事項」となっている。具体的な例として、「配送と梱包」や「商品の状態と損傷」まで丁寧に挙げられており、理由も書いてある。以下、その引用。
「個人体験」という謎単語も出てきて、オビヤブレビュアーじゃない人にとっても難しいのではないか。アマゾン的にいうと、商品そのものは「集団体験」(?)だけれど配送や包装は「個人体験」であり、普遍性がないということだろう。
たとえば、琥珀でできた手作り・一点もののイヌの置物なんかを注文して、製作者の意図(喧嘩に負けた犬を表現しようとした等)によって耳がちぎれていた場合、カスタマーレビューでそのことに言及して、星1つを付けてよいはずである。つまり、カスタマーレビューは「この商品を検討している他のユーザーにとって役に立つかどうか」という視点で書かれる必要がある。「公共性」の視点と言ってもよいかもしれない。(注2)
もう少し議論をややこしくしたい。オビヤブレビューを馬鹿にするのは簡単だけれど、これだけ多くのオビヤブレビュアーが存在するということは、日本人の知的レベルの問題とは別に、何らかのトラップが隠されているはずである。なぜオビヤブレビューが発生するのか、理由を2つ考えた。
理由① 「帯が破れていない本」を想像することの難しさ
アマゾンが禁止事項によって求めているのは、帯がズタボロに破れていたカスタマーに対しても、帯が破れていないことにしてレビューしてください、ということである。もっとアマゾン的にいうと「あなたの体験全体から個人体験を抜き取って、普遍性のある体験のみレビューしてください」ということだ。
「本を受け取った日、とても気持ちの良い秋晴れだったので星5つです」というようなレビューは、ほぼ見かけない。「秋晴れ」という個人体験が「届いた本」に物質的に影響しないから、切り離して考えることが容易なのだろう。ところが、「アマゾンの梱包が悪かった」あるいは「クロネコヤマトが荷物を投げた」という個人体験によって「届いた本」が物質的に破損していた場合、レビューから個人体験を抜き取ることは非常に難しくなる。返品手続きに進むのではなく、カスタマーレビューを書くという選択をした時点で、目の前にある「帯が破れた本」をもとに帯が破れていない本を想像し、レビューを書かなければならない。届いた商品は全てレビューするという人、帯を重点的にレビューする帯マニアにとって、これは難しい。ある種の知的作業が必要になる。
理由② 本の帯の破れやすさはレビューして良い
本の帯の破れやすさは商品そのもののクオリティと関連しているのでは、という問題がある。もし帯が半透明の和紙のように恐ろしく破れやすい材質でできていた場合、商品そのものが持つ特徴として帯を低く評価し、届いた時に帯が破れていたことに言及するのは、僕の個人的な感覚としては許容されるべきだ。
そのような意味では、「帯が梱包や配送の過程で破れていた」というレビューが大量についている本は、帯そのものに問題があり、商品自体の作りが良くないと予想することができる。こうなると、梱包や配送に関連したレビューでも、他の客にとって有益だ。ひとつひとつは純粋な個人体験でも、レビューが積み重なることによって、いつの間にか普遍性と公共性を獲得するという、とてもややこしい事態になる。
もう少し引いて考えてみても、そもそもアマゾンの本のレビューは純粋に作品内容、つまり作者の知的産物であるところの著作データのみを対象にするべきか、あるいはデザイナーや編集、装丁、印刷所といった関連部署の全体(あるいは一部)を対象にするべきか、という問題がある。アマゾンは「商品そのもの」という言い方で誤魔化しているが、何を「商品そのもの」と捉えるかは人によって異なる。
未文明世界の住人たち
いくつかの理由で擁護の余地があるものの、オビヤブレビューは規約で明確に禁止されているし、やはり問題がある。率直にいうと、オビヤブレビュアーたちは世界が成り立つシステム(文明)の中で、さまざまなものを区分できていない。「アマゾン」と「作者」、「出版社」と「配送会社」、「作者」と「印刷所」といった目に見える区分すら曖昧なので、レビューを書くとすぐ的外れなことに言及してしまう。
「帯が破れた本」のレビューをする場合は抽象度が高まり、目の前の「帯が破れた本」から「帯が破れていない本」を想像し、それらを区分した上でレビューを書く必要がある。ここでも区分が課題となる。当然、これらの区分の背景には「個人体験」と「集団体験」、「特殊性」と「普遍性」のような、さらに抽象度が高い、二項対立の区分イメージが存在する。
いまの文明(「精神的な文化」と対立させて「物質的な文化」と言い換えてもよい)は複雑すぎるうえ、文明の仕組みを理解せずとも社会生活が営めるようにパッケージ化されている。
それによって、「未文明」な世界で生きる人々が増えているのではないか。
「未文明」というのは僕が勝手に作った言葉だ。つまり、世界の方にはもちろん文明があるのだけれど、個人がその文明について、いちいち理解する必要はない。その結果として、現実世界では文明を享受しながらも、頭の中では未だに文明についてその素描すら理解していない、「未文明」世界の住人たちが現れるのだ。(注3)
文明世界の課題の多くは、未文明世界の住人たちをどのように内包するか、ということに尽きる。特にインターネットという新たな文明の登場は、多くの人々を未文明世界に置いてけぼりにしたように思う。
注1)そもそも論として、帯なんて破れていてもいいじゃないか、という問題がある。ジェーン・スーのエッセイ本の帯が破れていて、何が悲しいのだろうか? 僕は本全体がバリバリに破れて届いても悲しくない。だってジェーン・スーの本だよ?
注2)7月に死んだ僕の父親は、Googleマップのレビューに低評価を付けまくることで有名な男だったのだけれど、「店員の声が小さい」とか「愛想がない」とかいう評価が多かった。これもまた、普遍性と公共性の観点から検討されるべきだが、本人はもう死んでしまった。悲しい。
注3)このような人々は「メディアリテラシーが低い」などと馬鹿にされることがあるが、現代においては、知的負荷の低い未文明世界で生きる選択が合理的であったりもする。「未文明」という言葉は、「未開」や「野蛮」ほどネガティブな意味合いを持つべきではないと思う。
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