『ちいさな異邦人』(短編小説)
間違いなくあれは現実だったのだと、今もそう信じている。
11歳のわたしは“ぐるぐるゲーム”に夢中になっていた。その名の通り、地球儀をぐるぐると回転させ、目をつむって人差し指で止めた国名を当てるそれは、わたしが考案した遊びだ。滅多に当たらないけれど、的中した時は興奮する。
北半球を狙ってアメリカやロシアと言えば当たりやすい。けれど、国土の広い国が当たってもそんなに嬉しくはなく、やっぱり、国土の狭い国、例えばネパールやアイスランド、キューバなどを狙いたくなる。
なぜわたしがそんな遊びをやるようになったかといえば、旅行作家の父の影響が大きい。わたしの育った環境は、幼い冒険心をくすぐるものであふれていたから。
例えば、一階のリビングには、鮮やかな色のペルシャ絨毯が敷かれていて、壁には父が旅先で撮ってきた外国の写真の額が所狭しと掛けられ、まんまるの目をした不思議な顔のお面がいくつか飾ってあった。二階の父の書斎には、難しそうな本や図鑑が並び、色とりどりの石やアクセサリー、ヘンテコな形をした椅子などがあった。デスクの上には、父が大切にしていたという地球儀があった。
とはいっても、父はわたしが生まれる前に天国に旅立ったので会ったことは一度もない。父が遺した旅のかけらたちの中で一番気に入っていたのが、地球儀だった。
小学生のわたしの両腕で抱えられる、小さな青い惑星。
海洋は水色、陸地は茶や緑で彩られていた。海や湖はサラサラとなめらかに、山岳地帯は少しゴツゴツと立体的になっていてなかなかリアルだった。子供向けの地球儀とは違うその佇まいにわたしは惹かれていた。じっと見つめていると、宇宙空間から地球を見下ろしているような気分になる。
*
「今日うちで遊ばない? 」
「うん」
「じゃ、学校終わったらね」
ある日、わたしはクラスメイトのアカネちゃんを家に誘った。ぐるぐるゲームを他の誰かと一緒にやりたかったのだ。
「アカネちゃん、目つむった? 」
「つむったよ」
「地球儀を回すから指で止めてね」
「わかった」
鈍い音を立ててぐるぐると回転する球体に、アカネちゃんの人差し指が触れると、それは少しずつ速度を落として止まった。
「まだ目を開けちゃだめだよ」
「うん」
「さて、アカネちゃんの指はどこの国にあるでしょう」
「えっと・・・・・・日本」
「ブー。答えはモンゴルです」
「モンゴル? 」
アカネちゃんは明らかにハテナの表情をしていた。それもそのはず、アカネちゃんは国名をほとんど知らないのだ。
「ねえ、わたし、日本とアメリカしか知らないよ」
「そっかあ」
「カエデちゃん、お手本見せて」
「オッケー。じゃ、見てて」
わたしは得意げに地球儀を回した。目をつむって人差し指を伸ばす。「えいっ」と言って指先で地球儀を止める。この感触からして海ではなく陸だ。すぐ上には海峡らしきものがある。ここがジブラルタル海峡だとしたら、上がスペインだから・・・・・・
「ここはねえ、・・・・・・そうだ、モロッコ!! 」
わたしは自信満々に声を上げた。
「・・・・・・合ってる? 」
アカネちゃんの返事がない。気のせいか、少し肌寒く、周囲が急に騒がしくなった気がする。
「あれ? アカネちゃん? 」
そっと目を開けると、そこは自分の家ではなかった。わたしは知らない広場の真ん中にいた。地球儀がない。隣りにいたはずのアカネちゃんもいない。
「えっ、ここどこ」
あたりを見渡すと、広場には屋台のようなお店がたくさん並んでいて、見慣れない外国人のおじさんたちが行き交っていた。
何が起こったのか検討もつかない。確かについさっきまで家にいた。夢かと思ったけれど、ほっぺをつねってみたらちゃんと痛かった。
この景色、どこかで見たことがある。そうだ、図鑑でよく見ていたあの写真と同じ。ジャマエルフナ広場だ。ってことは、ここはモロッコのマラケシュだ。確か、大道芸人が集まる広場だったはず。視線の先には壺に向かって笛を吹いているおじさんがいて、後ろには占い師みたいな人がいる。広場の奥からは太鼓のような音楽が聴こえる。間違いないと思った。
なぜここにいるのか。異国の街でぽつんと一人。状況が飲み込めなかったわたしは、ただ戸惑うばかりでその場でしゃがみ込んだ。
「お母さん・・・・・・」
しばらくすると、頭に白い布を巻いた髭もじゃの太ったおじさんが話しかけてきた。
「هل بإمكاني مساعدتك؟」
やさしい笑顔なのはわかるけれど、何を言っているのかさっぱりわからない。明らかに日本の言葉じゃなかった。
「・・・・・・あの、助けてください」
「هل بإمكاني مساعدتك؟」
言葉が通じない。怖くて心細くて目に涙がじわじわ浮かんでくる。わたしのまわりに知らない人たちがどんどん集まってきて、人だかりができあがった。特徴的な衣装を着た外国人たちは、じーっとわたしの顔を見つめて何か喋っている。
「هل بإمكاني مساعدتك؟」
「هل بإمكاني مساعدتك؟」
「どうしたんだい? 」
「هل بإمكاني مساعدتك؟」
知らない言語が飛び交う中、日本語が混ざっていることに気づく。わたしは必死にその声の主を探した。群衆の一人に、真っ黒に日焼けした日本人ぽい男性を見つけた。
「どうしたんだい? 」
「あっ、あっ、あっ! 喋れる人がいたっ」
「・・・・・・やっぱり日本人だね。迷子かな。お嬢ちゃんは旅行で来てるのかい? 」
「ぐるぐるゲームしてたの。そしたらね、ここにいたの・・・・・・」
「ぐるぐるゲーム?? えっと、お嬢ちゃんは一人なの? 」
「うん」
「小さな女の子がこんな場所に一人でいちゃ危ないよ」
「・・・・・・」
おじさんは、群がっているまわりの人たちに大袈裟なゼスチャーを交えながら異国の言葉で何かを言っている。すると、少しずつ人が散らばっていくのがわかった。
「いま、何て話してたの?」
「この子は日本人で、迷子みたいだから、日本人の自分がなんとかするって言ったんだよ」
おじさんは黒い顔に真っ白な歯を見せてニヤッと笑った。
「お嬢ちゃんはどこのホテルに泊まってるの?」
「違うの。おうちにいたんだよ」
「この街に住んでいるの? 」
「違う」
「うーん。とりあえず一緒においで」
わたしは少し警戒していた。この知らないおじさんについていくのもちょっと怖いと思った。
「・・・・・・でも」
「どうしたの? 」
「でもね、知らない人についていったらダメなんだよ」
「そうか。そうだよね。でも大丈夫。おじさんはね、怖い人じゃないよ」
「・・・・・・」
「ほら、これを見てみて。名刺。おじさんの名前が書いてあるカード」
おじさんはおもむろにシャツの胸ポケットから紙のカードを取り出し、わたしに見せた。
「タナカコウタロウ? 」
「うん、おじさんは、田中っていうんだ」
「あっ、カエデとおんなじだっ」
「偶然だね。お嬢ちゃんの名前はカエデっていうんだね 」
「これ、どういう意味? トラベルライター? 」
「そうだよ、おじさんはトラベルライター。世界中を旅して文章を書いてるんだ」
「・・・・・・」
わたしはすぐにピンときた。旅しながら文章を書く仕事は、死んだ父と同じだ。そうだ。父もコウタロウっていう名前。古い写真で見た父に、どことなく似てる気もする。
まさか、この人はわたしの父・・・・・・ってことは、実は生きていたってことなの!?
「カエデちゃん。どうしたの? やっぱりおじさん怖い? 」
「ううん、なんでもない。ねえ、旅行作家とトラベルライターは同じ? 」
「そうだね。同じようなもんだね」
もしこの人が本当に父だとしたら、名前を聞いて、すぐに自分の娘だと気づくはず。それに、このおじさんは、おじさんって言うほどおじさんではない。名前と仕事が偶然同じだっただけ、わたしはそう思うことにした。
どこからともなく街にお祈りのような声が鳴り始めた。その音が響き渡ると同時に、大道芸人たちの動きが一斉に止まった。小学校のチャイムみたいなやつかなあと思っていたら、おじさんが言った。
「あれはね、アザーンって言うんだ。イスラムの人たちがお祈りをする合図なんだよ」
「へえ、変な歌だなあ」
連れられていった先にあったのは、外壁がローズ色のこじんまりとした宿だった。おじさんは1階の大衆食堂で夕食をご馳走してくれた。わたしの好きな匂いがする。タジンというモロッコの伝統料理らしい。食べたことのない味だったけれど、一瞬で平らげてしまった。
「ねえ、カエデちゃん。きっと、お父さんとお母さんが心配しているよ」
「お父さんは死んじゃったの、わたしが生まれる前に。お母さんは仕事であんまり家にいないんだ」
「そうか・・・・・・、そうなんだね。お母さんはこのマラケシュで働いているの? 」
「ううん。日本だよ。わたしもお母さんも東京に住んでるから」
「えっ、じゃあカエデちゃんはどうやってモロッコまで来たの? 」
「わかんない」
「・・・・・・」
おじさんは状況がつかめずしばらく困り顔になっていたが、何かを思いついたような表情で言った。
「明日、日本領事館に行こう」
「領事館? 」
「そう、あそこなら日本の人を助けてくれるはずだよ。ラバトっていう街にあるんだけどね、明日おじさんがそこまで連れて行ってあげる」
家に帰れる安心感で少し肩の力が抜けて表情が緩んだ。そんなわたしを見て、おじさんもニコニコしている。
「あの・・・・・・おじさんはこれからどこにいくの? サハラ砂漠とかアイトゥベンハドゥとか行くの? 」
「・・・・・・へえ。すごいね。モロッコのことよく知ってるんだね」
「お父さんの書斎の図鑑で見たことがあるの」
「サハラ砂漠もアイトゥベンハドゥも行くよ」
「いいな。わたしも行きたい」
心に少し余裕が生まれたからかもしれない。わたしは、このモロッコをもっと見てみたいと思って、勢いでおじさんに無茶なことを言ってしまった。だって、わたしにとってモロッコは憧れの国だったんだもの。
「え、カエデちゃん、本気? 」
「本気」
おじさんは腕を組んで「んー」と言いながら食堂の天井を見上げている。
「・・・・・・いや、やっぱりやめとこう。カエデちゃん、お母さんが心配してるよ。明日は領事館に行こうね」
「・・・・・・」
「おじさんはね、危なっかしくてこんな小さな女の子を連れ回せないよ」
「わたし大丈夫だもん。どうしてもダメ?」
「うーん。そうだねえ」
どうせ帰っても母はほとんど家にいなくて、わたしは一人だ。毎日図鑑や地球儀を見て過ごすくらいなら、このチャンスにここで本物を見たい。わたしは素直にそう思った。普通の女の子ならすぐに帰りたいって言うんだろうけれど。
「・・・・・・」
「よしっ。じゃあ、明日は領事館ではなくあの広場に行こう。お母さんが探しているかもしれないからね。お母さんに会えなかったらおじさん考えるよ」
「うん」
翌日、朝からわたしたちはジャマエルフナ広場の真ん中に立ち、母らしき姿が現れないか目で追い続けたが、夕方になっても母はおろか日本人さえ見かけなかった。その翌日も母は現れなかった。一日中おじさんが一緒に歩き回ってくれたけれどダメだった。
広場に母が現れないことを少し祈ってしまったわたしはやっぱりちょっと変わった女の子なのかもしれない。
「カエデちゃん。明日、領事館に行こうか」
「冒険・・・・・・」
「そんなに行きたい? 」
「行きたい」
「・・・・・・よしっ」
「いいの? 」
「おじさんの大冒険についてくるかい? 」
「うん」
「じゃあ、まずは冒険の支度をしないとね」
おじさんは覚悟を決めたような声をあげた。わたしが迷子から“冒険家見習い”に変わった瞬間だった。
翌日、旧市街の市場に連れて行ってもらった。手をつないだおじさんの手は大きくて黒くて温かくてちょっとカサカサだった。
細い路地が入り組んだ石畳の街は巨大な迷路みたいだった。スパイスのような匂いがする。お祈りの声が聞こえる。色とりどりの衣装を纏った人たちが行き交う。
「あのワンピースみたいな綺麗な服はジェラバっていうんだよ」
「ジェラバ? 」
「そう。モロッコの人が着る民族衣装だよ」
商店街の人たちは物珍しそうにわたしの姿をじろじろ見てくるのでちょっと怖かったけれど、店頭にぎっしり飾られたカラフルなニット帽や先の尖った靴、きめ細やかな刺繍のバッグ、外国のおとぎ話に出てくるような艶やかなランタン、銀色に輝く食器など、宝石箱の中を歩いているみたいで心が踊った。おじさんは、着替えやリュック、頭に巻きつけるヴェールなど旅に必要なものを一式買ってくれた。
その日の夜、ぜんぜん眠たくならなかった。胸のドキドキが、遠足なんかと比べものにならないのだ。
「ねえおじさん、サハラ砂漠って広い? ラクダとかいるの? 」
「超広いよ。ラクダもいるよ」
「すごい」
「冒険の始まりだ。明日の朝の早い時間にバスに乗るよ。だから今日はもう寝よう」
*
長距離バスは、マラケシュの市街を抜けて、砂と岩と椰子の木しか見えない道を走っている。外はまだ薄暗くちょっと肌寒かった。昨晩興奮してあまり眠れなかったわたしは、バスに揺られてうとうとしてきて、大きなあくびをして、おじさんの肩にもたれかかって寝入ってしまった。
でも、1時間も経たないうちにバスの大きな揺れにたたき起こされた。お尻が宙に舞う。身体が左右に揺さぶられる。バスが猛スピードで舗装されていない山道を暴走している。
すぐ横は崖。ぼこぼこ道を走るバスはまるで遊園地のジェットコースターみたいにスリリングだった。
「うわあっ・・・・・・」
「ふふふ、やっぱり起きちゃうよね。この揺れだと」
「おじさん、このバスこわいよ」
「カエデちゃん、初めての冒険が、オートアトラス越えから始まるなんてすごいぞ」
「オートアトラス越え? 」
「オートは高いっていう意味。アトラスはね、山の名前だよ」
「へえ」
「ほら、外を見てごらん」
窓の外に目をやると、図鑑の写真ではわからない壮大な眺めが広がっていた。ごつごつした岩肌の後ろに緑の森があり、その奥に雪化粧した高い山々がそびえ立っている。色彩が最低限の光景は、あらゆる色が混じり合った東京の街で生きているわたしにはあまりにも新鮮だった。
「このアトラス山脈を越えたら、ワルザザードっていう街だよ」
「おじさんはさ、このバス怖くないの?」
「うーん。怖いより楽しいの方が勝ってるかな」
「わたしもちょっとだけ怖いけど楽しい」
「そうだよね、カエデちゃん、そんな顔してるもん」
その言葉を聞いてちょっと嬉しかった。このおじさんは、わたしと同じようにこの状況を楽しめる人なんだ。きっと別世界の人間なんかじゃない。
途中、バスはトイレ休憩で何度か停車した。こんなにも険しい山の高い場所にも小さな村が点在している。
「過 去 か ら の 旅 人 を 呼 ん で る 道 〜 ♪」
糸みたいに目を細くしながら、わたしの知らない歌を上機嫌に口ずさむおじさん。その姿は、おじさんというよりは少年みたいだった。
「それ何ていう歌?」
「異邦人。知ってる? おじさんが大好きな歌なんだ」
「知らない」
「あ な た に と っ て 私 た だ の 通 り す が り 〜 ♪」
初めて聴いた歌だったけれど、おじさんの声は不思議と心地よかった。
バスは山道をどんどん南へくだっていく。険しいアトラスを抜けて、砂漠の街ワルザザードに到着するまで、おじさんはずっと笑っていたような、そんな気がする。
*
ワルザザードに到着したわたしたちは、そのままアイトゥベンハドゥへと向かった。
「わあ! わあ! わあっ」
わたしの口から出てくるのは「わあ」だけ。それくらいの迫力がアイトゥベンハドゥにはあった。
「やっぱり全部茶色い! 」
「うん。あの街は全部、土でできてるんだよ」
「図鑑の写真よりずっと大きいっ! 」
「すごいでしょ」
「うん」
「こういうバカでっかい景色に会えることも旅の楽しみの一つなんだよ。こうやって眺めていると、頭の中がすごくシンプルになる。地球ってでっかいなあ、自分って小さいなあって思うんだ」
旅について生き生きと語るおじさんの姿をみて羨ましかった。わたしも大人になったらおじさんみたいに自由に旅してみたい。
「あそこ、誰か住んでるの? 」
「もちろん住んでるよ」
「悪い盗賊とかいるのかなあ」
「ふふっ、いるかもね」
「えっ本当?」
「冗談冗談。盗賊なんていないよ」
「もうっ」
おじさんは冗談を言うたび豪快に笑う。わたしも釣られて笑ってしまう。こうやって少しずつ少しずつ、わたしとおじさんの距離は縮まっている。そんな気がした。
「空 と 大 地 が ふ れ あ う 彼 方 〜 ♪」
アイトゥベンハドゥの集落を歩いていると、おじさんがまたあの歌を口ずさみ始めた。いつも同じ曲。何度も聴きすぎて、気がついたらわたしは自分でも口ずさめるくらいメロディを覚えてしまった。
道を戻る途中、土産物屋さんの前に日本人ツアー観光客らしき集団が見えた。おじさんも日本人だと気づいてその集団の中のおばちゃん連中に向かって「こんにちは」と元気よく挨拶した。
おばちゃん連中は驚いた顔で、軽く会釈した。でもその表情は全然笑ってなくて、むしろ怪しいものを見るような視線だった。
真っ黒に日焼けした肌。長い髪。サングラス。無精髭。鮮やかな色をしたモロッコの衣装。確かにおじさんはパッと見近寄りがたい風貌かもしれないけれど、あんな顔しなくてもいいのにとわたしは思った。真っ白なコサージュのついた麦わら帽子を被ったおばさんはわたしに気づき、わかりやすく怪訝な顔をした。
「あ、この子は、娘なんです」
おじさんの思いがけないその一言にわたしはドキッとした。おじさんはわたしと顔を見合わせて「大丈夫大丈夫」と言っているような表情をした。
麦わら帽子のおばさんは目を泳がせ、どこか納得のいかない様子で「あらそうなの」と呟いた。おじさんは「では良い旅を」と言い残し、再び歩き出した。
「今日はワルザザードで一泊して、明日はバスでカスバ街道を走って、エルラシディアまで行くからね」
「カスバ街道? 」
「うん。カスバっていうのはね、このあたりのだだっ広い土地でたまに見かける土の色をした小さな街のことだよ。アイトゥベンハドゥもカスバの一つなんだ。で、ここワルザザードからエルラシディアまでの道をカスバ街道っていうんだ」
「ふーん。あのさ、明日は砂漠に着く?」
おじさんはモロッコについて色々とわかりやすく丁寧に教えてくれる。でも、その時のわたしの頭の中は既にサハラ砂漠のことでいっぱいになっていたのだった。
「そうだね。明日バスを降りたらサハラまであとちょっとだ」
「楽しみだなあ」
「おじさんもワクワクするよ。サハラは2回目だけどね」
「サハラってどういう意味なの? 」
「砂漠っていう意味だよ」
「じゃ、砂漠砂漠だね」
「ふふっ。そうなるね」
*
ワルザザードで一泊した後、わたしたちは再びバスに乗り込んだ。バスのドアが閉まり、窓の外の景色が動き出す。
茶と緑と青しかない世界が続く。日差しが強い。進行方向のはるか彼方、空と地面の境目がゆらゆらとしている。あのあたりまで行くと溶けてしまうんじゃないだろうかと心配になった。
「ねえ、おじさん。あっちの地面がゆらゆらしてるよ」
「ああ、あれはね、陽炎(かげろう)っていうんだ。こういう太陽の光が強い日に地面から湯気のようなものが立ちのぼるんだよ。日本でも見れるよ」
「この車、溶けないよね? 」
「溶けちゃうかもね」
「本当? 」
「冗談」
「おじさんっ! 」
「ごめんごめん」
おじさんはいつだってこんな調子で、その状況を楽しんでいた。わたしはずっと心が忙しい。モロッコにきてから初めて見るものばかり。昨日が遠く感じる。
「おじさん」
「ん?」
「昨日さあ、娘って言ったけど、どうして? 」
「ああ。言ったね」
「うん」
「ほら、親子ってことにした方が説明が簡単じゃない? 」
「説明? 」
「だって、昨日の日本人にさ、おじさんを誘拐犯だと勘違いされたら、面倒くさいからさ」
「おじさんは誘拐犯なの? 」
わたしがそう訊ねると、ちょっと間を置いてから、おじさんは腹を抱えて笑った。首を横に振りながら「そんなわけないじゃん」ときっぱり言った。
「っていうかさ、誘拐犯だったらカエデちゃんはどうするの? 」
「えっ」
「おじさんはね、トラベルライターだよ。友人にはカッコつけて冒険家って言ってるけどね。あと、カエデちゃんのことを娘って言ったけれど、おじさん実は結構若いんだよ」
「何歳なの」
「29歳」
「29歳っておじさんじゃないの? 」
「どちらかというとお兄さんだね」
「おじさんはおじさんだよ」
「ふふっ。カエデちゃんからしたらおじさんだよね。ま、いつか子供ができるなら、カエデちゃんみたいな娘がほしいな。ほら、こうやって一緒に冒険したりできるじゃない? 」
わたしはコクリとうなずいた。わたしもおじさんみたいな父がほしい。そう返そうかと思ったけれど喉のあたりで止まった。
バスは走り続ける。エルラシディアに到着したら一泊して、そこからタクシーをチャーターしてエルフードへ。そこからさらに南下してメルズーガへと向かう。メルズーガはサハラ砂漠の玄関口の街。いよいよ砂の世界に入る。
*
「砂の街だ! 」
メルズーガの街に降り立った途端、興奮気味に声をあげた。そんなわたしを、おじさんは微笑みながら見守っていた。
砂色の建物が並んでいる。街というよりも、砂漠の上に建物を置いただけの場所のように思えた。ここでは砂が主役なのだ。
「おじさん、ここは地球のはしっこみたいだね」
「ああ、なるほど。そうだね。うん。地球のはしっこかあ。カエデちゃんの言葉にはいつも感心するなあ。素直で鋭くて」
全身を真っ黒な布で包んだ女性たちとすれ違う。目以外のすべてが布に包まれていた。裾や袖が風に揺らめいて優雅だった。砂色の街に黒い衣装が際立つ。映画の世界みたいだった。
「こにちは」
その時、背後から誰かに呼び止められた。振り返ると、鮮やかな青色の服に身を包んだ、わたしより少し背の高い男の子が笑顔でこちらを見ている。この街に住んでいるモロッコ人だろうか。今、確かに「こにちは」と言った。こんな地球のはしっこで日本語で声をかけられるなんて想像もしていなかった。
「カエデちゃん、ちょっとここで待ってて」
「うん」
おじさんは男の子と共にちょっと離れた場所に行って何やら話している。一分ほど経ったら、二人はニッコリしながらこちらに戻ってきた。
「カエデちゃん、この少年はね、ハッサンっていうんだ。モロッコ先住民のベルベル族の人だよ。彼がね、これからメルズーガのホテルまで案内してくれるってさ」
「ハッサン? 」
ハッサンは会釈した。彫りの深い精悍な顔立ちだけど、睫毛がくるりんとしていて可愛い目をしていた。
「こんにちは」
「こにちは」
そういうことか。この男の子は「こにちは」しか日本語を知らないのだ。
「こんにちは、だよ」
「こにちは」
「違う、こんにちは、だよ」
「こにちは」
わたしは思わず吹き出してしまった。するとハッサンもつられてゲラゲラ笑った。なんて陽気なんだろう。なんて笑顔が綺麗なんだろう。こんな雰囲気の男の子、見たことがない。少なくともわたしのクラスメイトにはいない。
それ以上に驚かせるのは、わたしと大して変わらない歳なのに、もう仕事をしていることだ。こうやって大人と対等にお金の話もできるのだ。自分には到底考えられなかった。
ハッサンについていった先には、タイヤの大きな車が停まっていた。運転席には髭面のおじさんが座っていた。ブルーの布を首から頭に向けて巻いている。どうやらハッサンのお父さんらしい。ハッサンはタクシードライバーである父の仕事を手伝っているようだ。学校は行ってないのかな、なんてちょっと気になった。
車は砂と小石しかない大地を走り始めた。タイヤの跡が残っている砂の上をなぞるようにグングン進んでいく。道がなければ、わかりやすい目印もない。進行方向には砂と背の低い草と地平線が見えるだけで他は何もない。前を見ても後ろを見ても右を見ても左を見ても同じ景色が広がっていた。
こんなところで迷子になったらどうするんだろう。この運転手さんは道や方角をわかっているんだろうか。それに、今ここでガソリンがなくなったらやばい。わたしはちょっとずつ不安になってきた。すると、おじさんがわたしの浮かない表情に気づいて言った。
「大丈夫だよ。運転手さんはね、毎日ここを走っているからちゃんと道をわかってるんだ。砂漠のホテルまでだいたい二時間くらいかな。心配しないで大丈夫だよ」
おじさんがそう言っても、やっぱりわたしは不安なままだった。
*
車は道なき道をどんどん突き進んでいく。気がつけば地面はほとんど砂になっている。サハラ砂漠にもう入っているのだ。
「カエデ!カエデ!」
ハッサンがわたしの名前を呼びながら外を指差している。ハッサンが差す方向に目をやると、はるか遠くに小さな黒い点が三つほど動いているのが見えた。
「おじさん、あれ何? 」
「あれはラクダだね。野生のラクダ。家族かもしれないね」
「野生のラクダだ! 」
わたしがラクダに見惚れていると、今度は運転手さんがわたしたちに向かって何かを合図している。その視線の先には建物らしきものが見えた。いよいよホテルが見えてきたらしい。
「おっ、やっと到着だね」
ホテルの駐車場では青い衣装をまとった人たちが待ち構えていて歓迎してくれた。ハッサンと運転手はわたしたちを降ろした後、休憩もせずに車でさっさと引き返していった。
車から降りる時、ハッサンは親指を立てて「ハブアグッドトリップ」と言って笑顔で送り出してくれた。わたしもちょっとぎこちない笑顔で手を振った。最後の最後までハッサンは陽気だった。
ホテルの駐車場から、どこまでも延々と続く砂の景色が見えた。砂丘が山のように連なっている。
「サハラだー。すごいな」
「わたし、なんかちょっと怖い」
「え、あれだけ楽しみにしてたのに? 」
「砂漠が生きているみたいで飲み込まれそうだもん」
シンプルだからこそ際立つ迫力。空の青と砂の黄色に支配された世界。まさに、自然が作り出した芸術だ。あの砂のうねりは今にもわたしに襲いかかってきそうな気がしてならない。
ふと足元を見ると、小さな虫がいることに気づいた。
「ああ、それはフンコロガシだね」
「知ってる」
こんな小さな命が砂の世界で生きるのは楽じゃないだろう。でもちゃんと生きている。砂漠を目の前にして恐れを抱くわたしなんかよりもずっと強いのだ。
「カエデちゃん、今夜はこのホテルからラクダに乗ってあの高い砂丘の方まで行くよ。でね、砂漠のテントに泊まるんだ」
「あんな遠くのあんな高いところまで行くの」
「うん」
「本当に? 」
「おじさんが一緒にいるから大丈夫だよ」
わたしたちは宿の部屋に入って一息つくことにした。リュックからミネラルウォーターを取り出し、カラカラの喉を潤した。喉が乾くのはこの地の気候のせいだけじゃない。刺激的な景色を重ねることで心がフル回転しているからだ。
「ねえ、おじさん。ラクダ、わたし乗れるかな」
「大丈夫大丈夫。おじさんと一緒にのればいい」
「ラクダって背中にコブがあるけれど本当に乗れるの? 」
「コブとコブの間に乗るんだよ」
その日、生まれてはじめてラクダの背中にまたがった。乗っている間はずっとおじさんの背中にしがみついていた。想像以上に高さがあって、想像通り歩く速度は遅かった。
目的地のテントまで約1時間と少し。途中、傾きゆく日の光に照らされて、ラクダの影が砂漠の地面に映し出された。他の参加者のラクダも合わせた5頭のキャラバンから伸びる5つの影。その光景を見て、本当に冒険家になれたような気がした。
「カエデちゃん。ここにはね、電気も何もない。夜になったら真っ暗になっちゃうんだ。そうなったら何が起こると思う? 」
「え、何が起こるんだろう」
「星空の絨毯が現れるんだよ」
わたしはおじさんの言葉の意味がすぐに理解できなかった。
「何それ? 」
「頭の上に星空が輝いて、夜空と地面の境目がなくなる。そうなったらね、宇宙に浮かんでいるような感覚になるんだ。おじさんは星空の絨毯って呼んでる」
「わあ、楽しみ」
空が橙色に染まる頃、ラクダのゆっくりとした足取りが止まった。テントに着いたのだ。わたしたちはラクダを下りて、まずはみんなで夕食を囲むことになった。
砂漠ツアーのガイドであるベルベル民族のカリムが食事の準備をしている。テント内にはフカフカの絨毯が敷かれていて意外と快適だった。同じツアーに参加している日本人の夫婦が写真をパシャパシャ撮影している。わたしとおじさんは何もやることがなくてテントの外を少し散歩した。
砂の上をズボズボ歩く。スニーカーの中はすぐに砂だらけになった。何度砂を出してもまた入ってくる。次第に砂が入っても気にならなくなった。思い切って裸足で歩けば気持ちいいかもしれない。
食事を待っている間も空はどんどん色を濃くしていく。夕食が運ばれてくる頃には、あたりは真っ暗になっていた。テント内でランプのろうそくに火が灯される。炎が揺らめく空間に、モロッコの伝統料理タジンと大きなまん丸のパンが運ばれてきた。
カリムがパンを人数分に切り分ける。真ん中に置かれた大きなタジンにそれぞれがパンを浸して食べる。シンプルな料理だけど、これが本当においしい。もちろん、お腹が空いていたのもあるけれど。
「みんな、顔の表面だけが炎の光でぼわ〜んと浮かび上がっていますね」
「本当ですね。ランプの炎だけですからね」
同行している日本人新婚夫婦の男の人が言った。わたしたちと初めて声を交わした瞬間だった。食事を一緒にすれば、みんな仲良くなれることをわたしは知った。
「カエデちゃん、おじさんの顔は見えるかい? 」
「おじさん、もともと黒いから、見えづらいよ」
わたしの一言にみんなが笑った。その瞬間、暗いけれど明るい空間になったような気がした。テント内でいろいろな話をして盛り上がった。新婚夫婦は成田さんという名前で、北海道に住んでいるらしい。サハラに泊まるのが夢だったらしく、この新婚旅行で夢が叶ったと嬉しそうに語っていた。もちろん、わたしはおじさんの娘ということになっていて、正直な話、パパなんて言葉を使っている自分に馴染めなくて恥ずかしかった。
「カエデちゃんはすごいですよね。その歳でこんな経験できるんだから」
「そうですよね」
「そういえば、明日のサンライズって何時起きでしたっけ」
「何時ですかね。聞いてないですね。ガイドのカリムが起こしてくれるらしいですけど」
「ねえ、サンライズって何?」
「あ、カエデに言ってなかったね。暗いうちに砂丘に上って日の出を見るんだよ」
「一回寝るの? 」
「うん」
「明日に備えて、そろそろ寝た方がいいですね」
*
闇の中、カリムが手に持ったランプの明かりを手掛かりに、砂の斜面を一歩一歩上って行く。暗くて砂丘の頂上が見えない。歩いても歩いても到着しない。息が切れる。視界が悪くて危ないので足元に意識を集中するが、歩きごたえのない砂がわたしの小さな体から体力を奪っていく。
「おじさん、ちょっとだけ待って」
「疲れちゃった? 」
「違うの。靴を脱いじゃおうと思って」
「ああ、なるほど」
「すぐに裸足になるから」
「よぉーし。じゃ、おじさんも靴を脱ごう」
足の指が粒子の細かい砂をつかむ。さらさらで気持ちいい。「わあ、気持ちいい」と、はしゃぎ出したおじさんが早足になった。ガニ股で歩き始めたおじさんの後ろ姿が面白くて大笑いしながら、わたしも負けじとついていく。裸足になったことでより近づけたような気がした。サハラにも、おじさんにも。
汗だくになりながら大砂丘のてっぺんに到着した。一緒に上った人たちはみんな横並びになって腰を下ろした。わたしとおじさんは、砂の上に寝そべり大の字になった。
カリムがランプの火を消す。空には数えきれないほどの星が輝いていた。ひときわ強い光を放つ一等星をじっと見つめていると、宇宙に浮かんでいるような気がしてくる。おじさんが言ってた「星空の絨毯」ってこれのことなんだ。
「きれい。宇宙にいるみたいだね」
「星がすごく近く感じるよね」
しばらくすると、少しずつではあるけれど、あたりが明るくなってきた。起き上がって砂丘から見下ろしてみると、テントがすごく小さく見えて、こんなにも高い場所まで上ってきたんだと驚いた。
周囲をぐるっと見回す。地平線の奥の奥まで砂の世界が続いている。改めてわたしはすごい場所にいるんだと思った。
「カエデちゃん。ほら、あのあたり。明るくなってきてるでしょ。あのあたりから太陽が顔を出すよ」
新婚夫婦は、まだかまだかとカメラを構えている。そうこうしているうちにも、どんどんまわりが明るくなっていき、景色の輪郭がはっきりしてきた。同時に空が著しく変化する。藍色、水色、黄色、赤色、ピンク色。短時間で次々と色を変えていく表情豊かな空は見ていて飽きなかった。
その時、はるか彼方の地平線がまぶしい光を放った。太陽が頭の先端を出したのだ。みるみるうちに姿を大きくして、わたしたちの顔を照らし出した。砂の世界に彩りが生まれていく。
「わあ、まぶしい」
「すごーい」
しばらくの間、そこにいたみんなが言葉を交わさずに見入っていた。
「ねえ、おじさんはなぜ旅をするの」
「いい質問だね。そうだなあ。かっこよく言ってもいい? 」
「いいよ」
「知らない自分に会いたいからかな」
「知らない自分? 」
「カエデちゃんもこの旅で、知らない自分に会えなかった? 」
「あっ、わたしも会えたかも」
「どんなわたしに?」
「いっぱい笑うわたし」
こんなにもわたしは笑える人間なんだ。思い返せば、おじさんと旅を始めてからずっと笑っている気がする。美しい景色、陽気な人たち、ちょっとしたドキドキ。この国はわたしにたくさんの笑顔をくれた。
「カエデちゃん、この砂も冒険家だよ」
「砂が? 」
「砂はずっと一箇所にとどまらない。この砂の一粒一粒が、どこかから風で運ばれてきたんだよ」
「そっか。砂も旅してるってことだね」
「そう」
「わたしも冒険家になれたかな? 」
「こんな難しい話ができるなんて、カエデちゃんももう立派な冒険家だ」
*
メルズーガからマラケシュまで戻ったわたしたちは、電車で首都ラバトにへと向かっていた。わたしは車窓からの眺めをじっと見つめながら旅のことを思い出していた。一日一日が夢の中にいるみたいだった。
ラバトはそれまで見てきたモロッコと比較するとどこか違っていた。建物が都会的で街もどこか清潔感があった。その景色がいっそう旅の終わりを感じさせる。
到着した日本領事館でわたしたちは奥の応接間に通された。事情を説明し、わたしの日本の住所を調べてもらったけれど、そこは現在空き地で建物が存在しないということだった。
「カエデちゃん、住所間違ってないよね」
「うん」
「困ったね。帰る家がわからないことにはなあ。お母さんきっと心配してるよね」
「・・・・・・」
「よしっ、おじさんが一緒に日本に帰って家を探してあげよっか? 」
「えっ、一緒にきてくれるの? 」
その時、部屋に日本領事館の偉い人が入ってきた。
「田中さん。いろいろと事情をお伺いした上でですね、日本領事館としては、この子を今日このまま預からせていただきます。私たちが責任を持ってこの子の家を探してですね、戻れるように手配しますのでご安心ください」
「あ、なるほど。そうですか・・・・・・はい、わかりました。・・・・・・ありがとうございます」
受け答えをするおじさんの声はちょっと寂しそうに聞こえた。するとおじさんはわたしの方を見てニコッと笑った。
「カエデちゃん、ほら、そこのソファに座ってお茶でも飲もう」
「お茶飲んだら、おじさんもう行っちゃうの」
「そうなるね」
「・・・・・・」
「カエデちゃん、よかったね。領事館の人がちゃんと帰れるようにしてくれるって。きっとお母さんに会えるよ」
「・・・・・・」
わたしはもうこらえきれなかった。涙で視界が滲む。心が整理できなくて苦しかった。
その時、おじさんはわたしの手の平にそっと何かを置いた。
「泣いちゃったカエデちゃんにこれあげる」
「これ何」
「砂漠の薔薇っていうんだ」
「いいの?」
「アトラスの土産物屋で買ったんだ。おじさんとの思い出な」
別れが近づいている。なのに、声がうわずってうまく言葉が出てこない。わたしは精一杯、言葉を振り絞った。
「ぜ、絶対に旅で死んじゃダメだよ。約束だよ」
おじさんは「うんうん」と頷いて笑っていた。無理して笑っているのは、子供ながらにわかった。
「ああ、死なないさ。それにまたきっと会えるよ。来年、日本に帰国して結婚式をあげなきゃいけないからね」
「お嫁さんってサクラさん? 」
「えっ、俺話したっけ。なんで知ってるの? 」
「・・・・・・なんとなく」
「カエデちゃんは本当に不思議な子だね」
「おじさんはこれからどこを旅するの? 」
「これから迷宮都市フェスに立ち寄ってから北に向かって、そのままジブラルタル海峡を渡ってスペイン。スペインの次はポルトガル。その後はどうだろうね」
新しい国名を聞きながら心がざわざわした。できることなら、もっと一緒に旅したかった。もっと一緒に笑いたかった。
「カエデちゃんが無事に日本の家に帰れたら、俺のところに領事館の人が連絡くれるってさ。ちゃんと帰れたかどうか気になるからね」
「・・・・・・」
「大丈夫、心配ないさ。ちゃんと帰れるよ」
「・・・・・・うん」
「じゃ、そろそろ行くね。いつかまた会おう。バイバイ」
おじさんはソファを立った。少しずつ遠くなっていく背中。この胸の苦しさは何だろう。あの人に言わなきゃいけない言葉がある気がする。わたしは・・・・・・、わたしはあなたの・・・・・・。
おじさんはドアのあたりで立ち止まって振り向いた。
「楽しかったよ! 将来は冒険家になるんだぞー」
「おっ・・・・・・お父さんっ」
わたしはおじさんに向かって初めて「お父さん」と言った。震えるわたしの声が届いたのかどうかはわからない。おじさんは頭上に高く伸ばした両腕を振っていた。
姿が見えなくなった後、涙で歪んだ空を見つめながら思った。わたしとは対照的に、父は最後まで笑顔だった。旅の間いつもわたしを見守っていてくれていたその眼差しはもうここにない。
領事館の大きなソファで横になった。モロッコにやってきた一週間前が遠い遠い昔に感じる。旅でたまっていた疲労は、やがてわたしを寝息へと導いた。
*
目を覚ますと、わたしは病院のベッドで横になっていた。傍らでは母が心配そうな顔で椅子に座っている。
「お母さん」
「・・・・・・カエデ」
母の顔はひどく疲れていた。目尻には涙の跡が残っていた。
「体調はどう? 」
「平気」
「よかった・・・・・・」
「わたし、日本に戻ってこれたんだ」
「カエデ、あんた覚えてないの、アカネちゃんと遊んでいる時に急に倒れて。お母さんね、・・・・・・お母さんね、ううっ、うっ、あんたまでいなくなったらどうしようかと思った」
え、夢だったの。あの大冒険も、父の笑顔も、手の感触もしっかり覚えているのに。絶対に夢のはずがない。
「ねえ、お母さん」
「何」
「わたしね、お父さんに会ったんだ」
「夢に出てきたのね」
「違う。本当に会ったの」
「・・・・・・」
そうだ。父との別れ際にもらった砂漠の薔薇があるはずだ。そう思ってポケットに手を伸ばしたが、何も入っていなかった。
「何を探しているの? 」
「砂漠の薔薇」
「砂漠の薔薇? 」
「お父さんからもらったやつ。おかしいな、入れたはずなんだけど」
母の表情は明らかに戸惑っていた。いつも地球儀で遊んでいる娘がまた変なことを言い出したと思っているのだろう。
「お母さん。家に帰ったらお父さんとの結婚式の写真が見たい」
「・・・・・・ないわ」
「えっ、結婚したからわたしが生まれたんでしょ」
「籍は入れていたけれど、結婚式をあげる前に天国に行っちゃったから」
「え、え、え・・・・・・」
わたしの肩が小刻みに震え出す。嘘だ。そんなの嘘だ。
「ねえ、聞いていい? 」
「うん」
「お父さんってどこの国で死んじゃったの? 」
「・・・・・・スペインのマドリッドよ」
「・・・・・・」
無意識に、涙が頬を伝って落ちてくる。わたしは声を上げて泣いた。そんなわたしの手を母はギュッと握った。
わたしは涙声であの歌を口ずさんだ。
「その歌・・・・・・。あの人がよく歌ってた」
「お父さんに教えてもらったんだよ」
「・・・・・・」
「お父さんね、何回も何回も歌うから覚えちゃった」
「・・・・・・あんた、どこでお父さんに会ったの」
「モロッコ」
*
あの日、むせび泣くわたしの横で、母もまた両手で顔を覆い嗚咽を漏らしていた。無邪気なわたしの姿に父の姿を重ね合わせていたのかもしれない。
帰宅後、いつものように父の部屋に入ると、そこに置いてある全ての物に父の体温が感じられたのを覚えている。この地球儀を見るたび父は新しい旅に思いを馳せていたに違いないと。肝心の砂漠の薔薇はどこにも見当たらなかった。
わたしは26になった。今わたしが立っているのは15年前の今日と同じ場所だ。モロッコはマラケシュ。父と過ごした幼き日の記憶を追いかけて、はるばる日本から16時間かけてやってきた。
ヴェールを纏い、活気あふれる市場の人混みの中に飛び込んでいく。カサカサの温かい手に握られながら旅支度をしたあの日のわたしへと戻るように。
(了)
カバーイラスト:tago
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