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『黒い羽の鳥』(短編小説)


   気がつくと、宙を舞っていた。

   「わっしょい、わっしょい」と胴上げをする連中の掛け声には、男だけでなく女も混ざっている。無数の手の平が、私の全身を投げ上げて、受け止めて、また投げ上げる。

   胴上げの一行は間違いなく少しずつ移動している。体が高く上がった瞬間、進行方向の先に水平線が見えた。群青色の海が日の光にきらきら輝いている。彼らが一歩一歩向かっている先が断崖絶壁であることに気づくまでに時間はかからなかった。嫌な予感しかしない。

   両手両足をバタバタ動かして抵抗するものの、全く効き目はなく、かえって彼らの腕は力強さを増した。私の体は緩やかに回転しながらさらに天高く舞い上がる。崖はもう目の前に迫っていた。

「せーのー、よいっしょー」

   崖の手前で連中の興奮がピークに到達したその瞬間、掛け声とともに私は切り立った崖の上から海へと放り投げ出された。重力に逆らうかのように空に向かって飛び上がった体は少しずつ勢いを弱め、ゆるやかな弧を描くようにして下降していく。

   体がまっ逆さまになって、天井の海に吸い寄せられていく。岩礁に打ち付ける荒々しい波が、白い歯を立てて私をのみ込もうと待ち構えている。「ああ、私は死ぬのか・・」そう思って目を閉じた。

「えっ」

   その時、背後から力強い何かが私の体を掴んだ。背中から腹部までをがっちり握っているのは硬い皮膚におおわれた暗赤色の足だった。私の体はうつ伏せの状態のまま空に浮かんでいて、真正面に見える海面が凄まじい速度で視界を流れていく。

   何が起こったのか理解できないまま、首を動かし横目で上を見ると、私の体を掴んでいるのは白い体と黒い羽を持った巨大な鳥だった。ウイングスパンが十メートルを超えそうな大きな翼を上下に動かしてバサッバサッと音を立てていた。

   鳥は長いクチバシを震わせてカタカタカタと声を出しながら、海水面を這うように飛んでいく。この先自分がどうなるのか見当もつかないが、全身の液体が混ざり合うような胴上げに比べればずっとマシだった。先ほどまで自分がいた陸地はどんどん小さくなっていき、やがて見えなくなった。

   四方八方、空と海しか見えない世界で、思いを巡らせていた。私は自分が何者なのかわからない。胴上げ以前の記憶が一切ない。そもそも、なぜあの時、私は胴上げをされていたのか。彼らは誰なのか。記憶を掘り起こそうとしても何も出てこなかった。

   しばらくすると、波が少し荒くなり、どこからか雨の匂いがしてきた。鳥が向いている方向に目をやると、ずっと先に巨大な嵐雲が見えた。青と赤の雷鳴を轟かせる真っ黒な雲は、一瞬にして穏やかな海の景色を変えてしまいそうで恐ろしかった。

   このまままっすぐ飛び続ければ、黒い嵐の中だ。

   そこに壁があるかのごとく、晴れと雨の境目がはっきり見える。稲光が嵐の内側を頻繁に照らす。滝のような豪雨が海に降り注いでいるのが遠目にわかった。あの中に入ればひとたまりもない。空で溺れ死ぬことになる。体を掴む硬い皮膚を手でトントン叩いて止まるように促すが、鳥は止まろうとはせず、それどころかさらに速度を上げた。

   いよいよ嵐雲が迫ってくる。すると、鳥はさっと顔を上げ、瞬時に進行方向を真上に変えた。鯉が滝を登るように、鳥は嵐の壁に沿って垂直に飛び始めた。私の体も海水面に対して垂直になった。

   時折、黒い煙のような雲の壁から、直径二メートルほどの雨滴が飛んできて、鳥の羽にぶつかる。そのたびに鳥の全身が激しく揺れ、その衝撃は私の体もひどく揺さぶったが、鳥の足は決して私を離さなかった。鳥はひるむことなく天に向かって羽ばたき続けた。

   高い壁の終わりが見えてきた。鳥は嵐雲の真上を目ざしていたのだ。「あともう少しだ。がんばれ」と、私は無意識に鳥を応援していた。この鳥はいずれ自分を餌にして食べてしまうかもしれないというのに。

   辿り着いた嵐雲の上には、さきほどまでの荒々しい景色とは打って変わって、穏やかな世界が広がっていた。西と東と南にある三つの太陽から注がれる光が厚い雲の地面を黄金色に照らしている。見渡す限り、金の雲海が続いている。極楽浄土のような眺めを目の前にして、私は夢を見ているのかと思った。

   鳥は広大な雲の上をさらに速度を上げて突き進む。時に追い風にのりながら、休むことなく飛び続けた。

   どれくらい時間が経っただろう。いつのまにか私は意識を失っていたようだ。突風に吹き付けれて目を覚ますと、視界に広がるその神々しい景色に一瞬にして心を奪われた。

「すごい・・・」

   眼下にあったのは、黄金の雲に包まれた白亜の巨大宮殿だった。鳥は宮殿の上空を旋回しながら着陸準備に入っているようだった。

   輝きに満ちた建造物に見とれていると、突如として視界がぐるっと回った。一瞬の出来事で何が起こったのかわからなかった。白と黒の羽根がつむじ風の中に舞い散っている。鳥の足から離された私は空中に投げ出された。強烈な風圧にさらされながら勢いよく落ちていく。胴上げの連中から海に向かって飛ばされたあの心臓が浮き上がるような感覚がよみがえった。荒れ狂った刃のようなつむじ風が鳥をのみこんだことを理解した。鳥ははるか向こう側の雲へと落ちていった。

   宮殿のテラスに生える大木に私は落下した。大木には葡萄によく似た七色の果実がなっていて、そのやわらかな果実の上に落ちて一命を取りとめたのだった。そのまま果実と一緒に私は地面に転がった。

   まだ生きている。その事実に安堵したが体はもうほとんど動かなかった。私が倒れていたのはテラスの花壇だった。久しぶりの地面は土の匂いがして懐かしい感じがした。

   しばらくすると、地面に横たわった体を大きな震動が包んだ。宮殿の方から身長五メートルを優に超える巨人がドスンドスンと足音を立てて近づいてくるのが見える。日焼けした小麦色の肌、膝のあたりまで伸びた真っ白な髭のコントラストに目が釘付けになった。

   白髭の巨人は、えらく上機嫌な顔をしている。その笑顔は顔に刻まれた深い皺を際立たせ、わずかに残っている歯を露わにした。私をしばらくじっと見つめた後、空に向かって聞いたこともない言語で雄叫びをあげた。

   私にはもう抵抗する力なんて全く残っていない。巨人は、すぐそばにある泉の澄んだ水に両手を浸した後、手の平の上に私をそっと優しくのせた。生温かい風のような鼻息が全身に当たったが、意外なことに無臭だった。私は巨人になされるがままであった。

   巨人は私を手にのせたまま宮殿の中に入っていった。色とりどりの花が咲いた中庭を進んでいくと、青と水色と白のモザイクで彩られた建物が見えてきた。視界に映るすべてのものが「楽園」という言葉にふさわしい輝きを放っていた。心が穏やかになっていく気がする。

   建物の扉の前に到着すると、巨人が何かを叫んだ。扉は鈍い音を立てて開いていく。扉の先には王の間と思しき空間が見える。四方の壁は、木や花や鳥や虫の色鮮やかな絵で埋め尽くされていた。絵の中央では、あの黒い羽の鳥が大きく翼を広げている。その姿は、まるで神が崇められているかのようだった。

   内部に入っていくと、派手な衣装をまとった王と后らしき巨人が、クリスタルの玉座に座っていた。

   白髭の巨人は深々と頭を下げ、私を妃にそっと差し出した。妃は指先を震わせながら私を受け取った。それを見ていた王もまた、両手を天に掲げるアクションで喜びを表現しつつ、白髭の巨人と同じような雄叫びをあげた。

   妃は私に巨大な顔を近づけて匂いを嗅いだ後、声を弾ませて何かを喋った。喜んでいる様子なのは間違いなかった。巨人たちの言葉は全くわからないが、私のことを食欲の対象として見ていないのは何となくわかる。この安心感は何だろう。巨人たちの眼差しには、家族を見つめるような優しさが確かにあった。

   その後、妃は柔らかな手で、ゆりかごのように私を揺らした。それはこの世のものとは思えないほどの心地よい揺れだった。陽だまりのような温もりの中で満ち足りた気分になり、自然と涙があふれ出てきた。私は声をあげて泣いていた。ああ、幸せだ・・・。ゆっくりと意識が遠のいていく・・・。





「オギャ・・・オギャー、オギャー」
「二十二時十八分、男の子です!」

   分娩室のやわらかな照明が、新しい命を包み込んだ。

「おめでとうございます! 」
「麻衣子。がんばったな。男の子だよ! 」
「・・・うん」

   助産師が赤ちゃんを母親の胸もとに寄せた。

「お母さん。抱いてあげてください」
「ああ・・・。ありがと、生まれてくれてありがと」

   母親の涙と呼応するかのように、赤ちゃんは泣き声をさらに大きくした。夫の賢一も背中を震わせている。二人は諦めようと思ったこともあった。長い不妊治療の末、やっとのことで授かった子だった。

「母子ともに無事だって。よかった、本当によかった」
「うん。っていうか賢ちゃん泣きすぎ」
「・・・泣かないと決めてたのに」

   コウノトリの絵が描かれたおくるみの中で、小さな命はずっと声を上げて泣いていた。この世界に生まれたことを心から喜ぶように。


(了)


この短編小説は「第16回坊っちゃん文学賞」に応募(落選)した作品を一部加筆修正したものです。この世界の誰もが奇跡的に生まれてきたかけがえのない命であること。そんなメッセージを込めました。


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