福永武彦『草の花』
たっぷりと湿り気を含んだ初夏の空気が、生き物としての私たちを執拗に潤わせる。
窓枠に根を張った黴たちの、架空の魂に呼びかける、―君たちの魂はいったいどこにあるのだ?
いつものことながら、衒学的な心の動揺にうんざりする。自らを律するということが人間だけに課された理知的な営みなら、生き物としての私たちは出典不明の動物的情熱に対して絶えず軽蔑のまなざしを向け続けねばならないのだろうか? その根本的な不可能性に直面する私たちの動揺は、
・荒々しい言葉
と
・アーカイブされ続ける硬直した現在
によって固着したまま、じっとりと黴に侵される。
そんなに大袈裟に構えないでくれ、と思う。もし私が藤木忍だったなら。
しかし、朝夕の凪のあいだ、海の千慮を目撃する私たちは、大袈裟なものをたんなる大袈裟な芝居と読むだけでは飽きたらない。
いかなる決死の表現にも、その背後には360度に波打つ千慮がある。
その波間にたゆたう銀波の色合いに殴られたときにだけ、その海をまるごと愛そうとする心の航路が開けるのではないか?
少なくとも、私はそうだ。
あなたは?
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