突き抜けてるひと。
先日心やさしい人生の先輩に使ってないテレビを譲って頂いた。
元は我が家にもあったのだが、故障して眠っている状態だったのだ。
2年以上振りにテレビが復活し、嬉しいもんだからBlu-rayレコーダー(亡くなったばあちゃんの遺品。ずいぶん前から家に保管していた)を繋いだり、FIRE STICK TVを設置して大きな画面(ずっとiPadて映画などを観ていた)で映画やドラマを観たりとエンジョイしていた。
テレビは正直私にとって、松ちゃん(松本人志氏)を観るためのものだったのだ。
今の我が家のテレビには松ちゃんが映らなくなってしまったようで、元々好きだったバラエティ番組は随分と面白くないものに変わってしまっていた。
金曜日の夜だった。
自然と子どもの時分から大好きだったミュージックステーションの存在を思い出す。
ちょうど放送時間内だったので観てみることにした。
普段の私は古い音楽を掘り下げるばかりで、新しい現代音楽を取り入れることをまるでしないので(古い音楽の中にも知らないアーティストがたくさんあるので、それはそれで新しいのだが)、このような取り組みは新鮮なのだ。
多くの場合興味を示さないのだが、その日出演していた何組かのアーティストは個性的で心震わすものだった。
特に(おそらく)初めて観たアーティスト、優里氏の【カーテンコール】という曲に感銘を受けた。
歌詞が意味を成しながら韻を踏んでいて、音楽と見事に溶け合って才能を感じた。
それがなくともそのひとのパフォーマンスは一般とは肩を並べていないと感じた。
どういうことかと言えば。
普段私が出演しているライブイベントに、このひとがもし混じっていたら頭ひとつふたつ、もっとか。飛び抜けているだろうなと思った。
いや。
私のような素人が出演するイベントにも才能を感じるひとはたまにいるのだ。
そのひとたちと比べても『プロ』と呼ばれるひとたちは一線を画していると思われるのだ。
当然と言えば当然なのだが、長くライブ活動をしていて、様々なパフォーマーを観てくるとその感覚は麻痺する。
しかしやはりプロはプロたり得るのだ。
正直言って、アマチュアの世界でお客さんを呼べているひとの多くは『営業が上手なひと』。これははっきり言ってシラける。
いや、もちろんそれも大切なのだ。それも音楽活動には必要不可欠なことなので否定は全くしない。
とは言え、やはりパフォーマンスが抜きん出ていれば、図らずともお客さんは入るのだと思う。
プロになるとその肩書きに釣られてひとが集まるように勘違いしがちだが、それは違う。違う場合が多い、としておこうか。
やはりひとを惹きつけるものがあればひとは集まるのだ。
優里さんを例えに出してしまったのでややこしくなるが、上手いから、声が良いから、見た目が良いからとか、それだけではないのだ(優里氏はそれら全てを持っていると思われるので)。
つまり、突き抜けているのだ。
突き抜けているひとに、ひとは魅了されるのだ。
少なくとも私ははじめて観た優里氏にそれを感じた。
これは才能かも知れないし、天性かも知れない。もしかしたら努力で勝ち取れる部分もあるのかも知れない(そうであると信じたいのが長くアマチュアをやっている私たちの願い)。
アマチュアのステージにプロがもし立ったらと考えた時、やはり想像するのは突き抜けている場面だ。
プロより上手いひとはアマチュアの中にもたくさんいる。
世の中のエンターテイメントは残念ながら『上手い』の順番に構成されているわけではない。
ある程度のそれは必要だとしても、絶対条件ではない。
周りを圧倒する力、プロの多くのひとたちにそれがあると思う。
『突き抜ける』が才能でも天性でもない場合、やり方はちゃんとある。
自分なりに「こうではないか」と思うやり方がある。
それは、私もまだ現役なので教えるわけにはいかない。
今から激しく上手くなることは難しいと思うので、ここを伸ばすこと。少なくともその努力を惜しまないことが大切だと思っている。
前述した「アマチュアがすがる努力」とここで言う努力はまた違う部分だけれども、アマチュアに努力が足りていないのもこれは揺るぎない事実。
私がそうであるように汗汗汗。
余談
テレビを設置したことで久方ぶりに観た現在の元気そうなタモリさんの姿に一番感激した。