チクチクピンク

小説『オスカルな女たち』 22

第 6 章 『 啓 示 』・・・2


     《 カレー男子と秘密の花園 》


「くぁ・・・・」
デスクのスタンドライトを消す楓を確認するようにして真実(まこと)は、大きく両手を広げて伸びをした。
「あの、特患のせいですか?」
特別患者…それは言わずと知れた女優の〈弥生すみれ〉のことだった。だが、まだ、その人だと院内の人間には告げていない。
「なに楓ちゃん。突然…」
「寝不足、ですよね?」
「いや。そうでもない」
(…と、思うけど?)
腕組みをして構える。
「こないだからの『仕事熱心なわけ』ですよ。なんだか、その人のことばっかり考えてますよね?」
(その人のことばっかりって…)
「そりゃ、患者だから…」
「それだけじゃないんじゃないですか…!」
いつもにもまして強い口調の楓に、
「それだけだよ。それ以外なにがあるの」
と、言い淀む。それだけじゃない…ことがある真実は自然に口調がきつくなる。
(いつまでも黙ってるわけにもいかないよなぁ…)
どのタイミングで、だれに、という判断もある。
「その特患のことなんだけど、さぁ…。楓ちゃん、」
改まって楓を見据える。
「いやですよ…」
「まだなにも言ってない」
「でも、言おうとしてる」
「あ…?」
「あの特患の専任看護にしようとしてますよね…?」
(こんな時だけ勘がいい…)
おでこを押さえながら、体を起こす。
「こんなこと楓ちゃんにしか頼めないんだよ~」
情けない声を出してみる。
「そういう言い方、ずるいです。…一体、誰なんです?」
こんな時の楓の目はらんらんと輝いている。〈木下楓〉は自分しか知らない真実の弱点を握るのが大好きだ。そして、それを知らない真実ではない。
「いつもふたりだけで診察なんて…妬けちゃう」
(妬けちゃう…ってか)
こちらにとっては気が重いだけの時間だというのに「知らない」というのは実に平和なものだ。
「誰だか教えたら、お願い聞いてくれるの?」
したたかに、楓の喜ぶ顔をする。
「そりゃ…。真実先生の頼みなら…」
上目遣いに応える楓。
「でもなぁ…」
「なんですか?」
「いや、」
「もう~。真実先生~」
楓はまた、いじられるのも、じらされるのもたまらなく好きだ。だが、
「いやですよ」
「そんなぁ…」
「ダメです!」
「頼むよぉ…」
どうやら今回は、彼女もただならぬものを感じているのか、泣き落としが効かないようだ。
(どうするかな…)
「どうしてもダメなの?」
「冷静でいられる自信がありません」
(言ってくれる…)
こうなれば「仕事だ」と言ってしまえばいいのだが、それはそれで仕事がやりづらくなることも承知していた。
「次はその特患さまですから、よろしくお願いしますね…!」
楓はあからさまに不機嫌な態度で診察室を出て行った。
「…はいはい。はぁ~
(気が重いなぁ…)
頭を抱えても、その特別患者を受け入れたのは真実自身だ。仕方なしと姿勢を整え、気持ちを入れ替えた。

やきおにぎり

吉澤産婦人科医院の診察時間は「9:00-12:30」と「14:30-20:00」とわりと良心的だ。休診日は木曜と日曜だが、急患と面会は受け付けているため、実質年中無休となっている。日中だと駅から20分強、深夜であれば15分と、繁華街から離れたところにあるとはいえ、医院から車で15分程度先には工業団地があり、需要あっての時間割なのだ。駐車場も30台ほどのスペースがあるし、コンビニエンスストアも近く、コイン駐車場もある。
土曜はもちろんのこと、月初めの週明けはなにかと忙しい。予約制をとってはいるが、診察時間が食い込むことなど日常茶飯事で、そういう意味でも月曜日は忙しかった。
そんな月曜だったが、この日の予約は比較的少なく、特患さまは午後1時半の予約。入院患者の食事のあと、看護師たちが食堂に集う時間だった。
「・・・・なんで黙ってた?」
静かに語り掛けてはいるものの、デスクに拳を打ち付け、いつになく迫力のある声音で食い下がる真実。視線の先には、バツの悪そうな顔をした派手な妊婦がひとりうなだれていた。
「えぇと…」
上目遣いで口ごもる、特別患者。
女優〈弥生すみれ〉こと『観劇のオスカル』〈花村弥生子(やえこ)〉は、真実が今一番頭を抱える患者であった。
「えへ…っ」
「笑って誤魔化すな。なんで、黙ってた、と聞いている」
「黙ってたわけじゃないわ。でも、診察すれば解ることじゃない?」
責め立てられているわりには横柄な態度を示す弥生子。
「それにしたって…!」
診察を終え、拳の先のエコー写真を睨みつける真実は苛立ちを隠せない。
「ホントに出産する気あんの? 妊婦の自覚は?」
「あるからここにきてるんじゃない…!」
(確かに。いや、)
ペースに飲まれてはいけない。
「だったら!」
思いのほか診察室に響く自分の声に我に返り、
「いや、…とにかく、6ヶ月までは絶対安静だ! なにかあったらすぐに来い」
静かに言い直す。
患者相手とは思えない口調で声を荒げる真実。いつもなら誰かにたしなめられているところだが、あいにくこの特患さまは「ふたりだけの診察」がお望みゆえ、間に入るものは誰もいない。
「病気ではないが、安静に越したことはない」
「わかってるわ。だから、仕事も減らしてる」
(…どうだか)
仕事柄「減らしている」と言われてもどんなものなのか、真実には見当もつかない。ゆえにその言葉は端から信じてもいない。
「そんなことより、誰にも言ってないでしょうね…?」
「あたしにそんなこと言えた義理か?」
片眼を吊り上げ上目遣いにすごむ。 
「はいはい…そんな顔で見ないで。心拍数上がっちゃうじゃない、胎教に悪いわ」
真実にとってはその冷静さが逆に腹立たしい限りだが、
「胎教に悪いと思うならもっと早くに言うべきだったよね」
語気を和らげる気などさらさらなかった。
(こっちは心臓止まる勢いだわ…! よりによって…)
恨めしい目つきで、それでも愛おしそうにお腹をさする弥生子を見遣る。そんな姿に仕方なしと鼻で息をし、
「まだほかにあるんじゃないだろうね?」
疑いながらの質問は続く。
「なにもないわ…。とにかく、よろしくお願いするわね真実さん。今の私にはあなただけが頼りなんだから」
思いのほか真剣なまなざしの弥生子に、仕方なしと観念したつもりで溜め息をついてみるが、どうにも憤りを収められない。
「そう思うなら言うことを聞け…!」
「くどいわね…わかったわよ」
(ホントかよ…? まったく。…まぁ、出産が本気なのは解ったけど)
「ねぇ、聞いていい?」
なるべくさりげない流れで言ったつもりの真実だが、
「いやよ」
弥生子にあっさりと返される。
「誰だっていいじゃない、相手なんて…!」
まだ聞きたいの?…と、険しい目つきで真実を見る。
「そんなことが聞きたいんじゃないよ。なんで如月に行かない?」
「そっち?」
「そっちだよ…」
(この際どっちでも同じだ。相手なんかどうでもいいんだよ)
「だから、いやだって言ったじゃない」
いい加減にして…とふてくされる。
「なんでよ? あっちの方が全然、待遇いいぜ?」
「まだ言う? 真実さん、実はヤブ医者なの…?」
「怒るよ…!」
「もう、怒ってるじゃない。さっきから顔が怖いわ…」
「は?」
(いい加減にしろよ…!)
「…だから、いやなのよ…ただいやなの」
「なんでよ、仲悪かった?」
(あたしも得意じゃないけど…)
必然的に〈如月遥〉の顔が浮かぶ。かつての同窓生『快進(回診)のオスカル』は、同じ職場の同僚でもあった。
「そういうわけじゃないわ」
「ふ~ん」
なんとなく釈然としない。
「あなたこそ…。仲、いいんじゃないの? 大学病院、一緒だったんでしょ」
遠慮しがちに爆弾投下…その遠慮がちな態度が余計に不信さを増す。
ン、なわけ…! あるはずないじゃん。大学病院だって偶然だったし、あたしのことなんかいつでも敵視よ」
あろうことか仲がいいと思われていたとは、むしろ真実にはそちらの方が驚きだ。
「だいたい、いつも男としかいなかったし…」
と毒づけば、
「あなたが?」
と、これまた心外な言葉が返ってくる。
「あっちが!」
(なんであたしだよ…?)
「そこが、釈然としないのよねぇ…」
そう言って顎に手を当てる弥生子にとっての釈然が、真実には一切伝わらない。
「なにがよ?」
「だって彼女、ビアン寄りでしょ?」
「へ…? びあん…?」
(びあん…だと…?
また、この場に添わない言葉が出没してくる。
「やだ、知らなかったの…?」
「は…なにが? なにそれ…」
言葉の意味は解っても、なにを意図しているのか解らない。
「え…だって…。え? 玲(あきら)さんも? じゃ、みんな知らないのかしら…」
自然に語尾が遠のいていく。
(今。なにを…? 言った?)
驚きで瞬きができない。
「違うのかしら…? でも。ほら昔、真実さん目当てにカレー持ってくる男子高生…」
(またカレー男子…?)
「覚えてる? 彼のこと…」
「覚えてないよ、そんな昔のこと」
覚えてるんじゃない…そう前置きをし、
「だいぶ敵視してたわよ~、彼女」
と、弥生子ばかりが解った風に話を繋げる。
「だれを?」
(あたし…だろーな、やっぱり)
「カレー男子を、よ」
「カレー…? え…ちょっと、待て、だれが? だれを?」
「だから、カレー男子を遥が、」
「敵視の意味が解らない」
だいたい遥は、それを目当てに玲にくっついていたんじゃなかったのか。少なくとも真実はそう解釈している。
「そ、そう…。真実さん、知らないの…」
そう言って弥生子は、ぶつくさと独り言のようにつぶやいた。
「真実さん、ソフトボールひと筋だったから気づかなかったのね…? あのコ…遥が玲さんにくっついてたのはあなたに会うためだったのに…」
「はぁ…? まさか…」
(如月遥だろ…? あの、)
ありえない…と、平静を装ってはいるが、内心はそれどころではなかった。
「もしかしたら、彼女…自分を女だと思ってないから、男としかいなかったんじゃないかしら…?」
そういうことかしら?…と、ひとり納得したように顔をしかめている弥生子に、真実はさっぱり同意できない。
(は、冗談…。ここにも、いた…?)
つい先ほど自分に対し「妬けちゃう」と拗ねていた楓を思い返し、どんな割合で存在しているのか…それとも、自分の身の回りだけなのか「類は友を呼ぶ」的な作用なのか、途端に嫌悪感が沸き上がる。
キモチワルイ…
「あなた、学生時代の自分の立ち位置、全然把握できてなかったのね」
皮肉めいた視線を浴びせる弥生子。
「立ち位置…?」
「なんのための『オスカル』よ」
「なんのためって。単なるあだ名だろ?」
「まぁ、今となってはそうだろうけど…」
それはどういう…。
「いやいやいやいや…。そうじゃないだろ」
(面白がってるのか…?)
「スポーツ刈りで、あれだけ汗臭きゃそういう目で見られても仕方ないわよ」
嘲笑気味に真実を鼻であしらう弥生子。
随分とはっきりとモノを言う。それも無礼講だというのか。
「汗臭いって…」
(そういう目?…って?)
「なんなの?」
「女子校ですもの、おかしくないでしょ」
おかしくない…の、だろうか。
「いやいやいやいや、そんなの…。あたしの責任か…?」
噂に聞くことはあっても、実際に目にしたことのない現実をどうやって把握しろというのか。複雑な心境を隠せない真実は、無意識に視線を泳がせてしまっている。
(そんな身近にいたとは…。てか、玲、知ってんのか?)
だが、玲に聞けるような内容でもない。
(びあんより? なんだその言葉…)
自分の「男嫌い」は母子家庭のせいだと思っていた。
物心ついた時から、家の中に『男』の存在がなかったために免疫がないのだと思っていた。だが「母子家庭」なんて今どき珍しくもなんともない。両親がそろっていたとしても、仕事の都合や家庭の事情で似たような境遇で生活している者もそう少なくはない。だからと言って…。
自分も、そっち側の人間なんだろうか・・・・。
小さくわいた疑問がどんどん膨れていくのを止められない。
恋愛に関して「世間の常識」なんてものはあるようでないものだと改めて思う。自分の頭の中の「常識」では、恋愛とは『男』と『女』2種類の性別があり、プラスとマイナスが引き合うだけの単純なものだった。それが世の中の常識は『男』と『女』2種類の性別しかないにもかかわらず、プラスとマイナスどころか違う極までもが存在するのだと思わせるほどに様々な化学式が展開されている。自分がプラスかマイナスかなんてことより、見えない振りをしていた部分こそが優先される世の中なのだ。
(そんなはずはない。…織瀬のことだって、ただ心配なだけ…)
無意識のうちに〈織瀬(おりせ)〉の名を思い描いてしまっている自分にさえ気づけないほど、真実は激しく動揺していた。
キモチワルイ…
これは、いつか感じたことのある記憶。
「真実さん…。真実さん!」
「え?」
「なに呆けてるの?」
「あ、いや」
「それより。…わたし、普通分娩で行ける?」
「なに突然」
「出産は、普通分娩もできなくないのよね?」
「あぁ…まだなんとも。いまのところ邪魔になってはいないけど、約束はできない」
「そう…。もう水着着るわけじゃないからいいんだけどね、やっぱり…ね」
身体に傷を作るのは、女優じゃなくても気になるところだろう。
「とにかく。今は赤ちゃんのことだけ考えて」
毎度毎度、よくもこう問題を落としていってくれる。真実の心中は胸騒ぎどころのかわいい動揺では収まらなかった。
「わかってるわよ…」
「じゃ、2週間後…。異変があったらすぐ来るように…」
「…はーい」
思いのほか神妙に返事をして立ち上がる、今日の弥生子はいつもの派手ないでたちのわりにはヒールのないパンプスを履いていた。
(素直じゃないか…最初からそうならいいのに)
一応気にしてはいるようだ。
「成長によっては、入院も早めになるかもしれない。そのつもりで仕事片づけて」
「えぇ、その辺は大丈夫よ。しばらく海外に行くことになってるから…」
(け~。そんな準備だけは早い)
「海外…ね」
「常套手段でしょ」
当然とばかりに得意気に微笑んで見せる。
「それより真実さん。例の件も、ちゃんと話進めてよ…?」
ドアノブに手をかけ、思い出したように首をこちらに傾ける。
「なに? 例の件…って。あぁ…」
「なによ、忘れたの?」
「忘れてないよ。それは考えさせてって言ったじゃん」
途端に機嫌が悪くなる。
「ちょっと、考えるだけじゃ困るのよ」
「わかってる…! わかってるから…」
機嫌が悪いというより、聞きたくないといった態度をあらわにする。
「なにか、あるの…?」
これまでの態度以上に、その様子が気になる弥生子は訝し気に問う。それに対して真実は平静を装い、静かに「なにもない」と答えた。当然弥生子には「なにもない」ようには映らない。しかし、
「そう? ならいいけど…」
なにか言いたそうではあったが、これ以上機嫌を損ねられてはまずいとでも思ったのか、おとなしく矛を収めた。
「それよりあのスポーツカー、あれもやめな。タクシーにするとか、マネージャーに送らせるとか、なんかあんだろ」
(だいたいマネージャーってのは、常に付きっきりなわけじゃないのか? それとも、いないのか?)
「次からはそうするわ…」
「もしかして、マネージャーにも内緒なのか?」
「…そういうわけじゃないわ。ただ、詳しく話してはいないだけ…」
(それを内緒というんじゃないのか…?)
「まぁいい。とにかく、気をつけて」
「ええ…」
それじゃぁ…と、静かに診察室を出ていく弥生子。それを見送り、脱力。
(つかれる…)
溜め息はやまない。
「だいたい…ふたりだけの診察とか、目立ちたくないならもっとおとなしい来院の仕方があるだろうに…」
重低音を響かせて帰って行く弥生子の車の音を耳に苛立ちを隠せない真実だった。

画像3

(里親…か)
未だ指先に握られていたエコー写真をはじき、いつになく真顔な真実は力なく背もたれに首を預けた。大きくもれる溜息だけでは、弥生子の出産に漂う暗雲を流せるわけでもなかった。
「はあ~」
声に出してもすっきりしない。
産婦人科医として〈里親制度〉や〈養子縁組〉に関し全面的に否定しているわけではないが、真実には思うところがあった。ゆえにいくら冷静を保とうとしても、その言葉には自分でも押さえ切れない感情が溢れ出てしまうのだ。ただ、自分の中でかみ砕けないうちは「はい、そうですか」とはいかない要件だった。
さらに、問題はそれだけではない。
「まったく。厄介ごと持ち込みやがって」
弥生子の妊娠はただの妊娠ではなかった。
(参った、な…)
初診での弥生子は妊娠12週目に入っていた。思いのほか妊娠の自覚は早かったのだろう、おそらく1度はどこかの病院で確認しているはずだ。解ったうえでここに来たのだ。
体を起こし、机の上のエコー写真に視線を移す。
(これでどうやって内緒にすんだよ…)
弥生子の子宮の中には、胎児と共に「筋腫」も存在していたのだ・・・・。
子宮筋腫…それは子宮にできる良性の腫瘍のことだ。悪性ではないため命にかかわるようなことではないが、それが妊娠中となるとまた違ってくる。妊娠初期は女性ホルモンが急激に増えるため、筋腫がその女性ホルモンの影響を受け大きくなる傾向があるからだ。
子宮は平滑筋という筋肉でできているが、この平滑筋の一部がこぶ状になったものが「子宮筋腫」と言われるものである。20代以降の女性3人にひとりが持っているとされるが、場所によって自覚症状のないまま閉経を迎える者もいる。子宮筋腫は初経前の女性では発症することはないが、生まれつき持っている素因に加え卵巣から分泌されるエストロゲンという女性ホルモンが影響し大きく成長するとされている。よって、生理があるうちは大きくなるが閉経するとそれ以上は大きくならずに、少し小さくなることが多い。とはいえ…。
真実は最初に感じた「いやな予感」にじわじわと飲み込まれていくようで、心穏やかではいられなかった。
(なにかあるとは思っていたけど…)
「ただ産むだけじゃすまないだろーが…」
そうぼやいてエコー写真を弥生子のカルテに挟み、それを閉じた。鍵付きの引き出しを開け、カルテを入れて施錠した。
子宮筋腫の発症する原因は不明だが、日本の欧米食が普及したころから急激に患者数が増えている。そう言えば花村弥生子の祖母は国際結婚だったのではないか…だが、今さらそんな勘ぐりがなんの役に立つというのか。

大きく溜息をついて立ち上がり、診察室を出た。すると、重役出勤の母親〈操(みさお)先生〉のこぢんまりとした背中が視線の先に、
「操先生…」
(あ…っと、)
本当は呼び止めるつもりもなかったのに、うっかり声を掛けてしまった。
「ちょっと話あんだけど…」
(仕方ない…)
本音は話したくない…態度をあらわにし、だが、そうもいっていられない真実は、たった今出てきた診察室の扉を再び開けた。
「おや、珍しい。あたしになにか用かい」
いつも通りの親子の会話だが、今の真実にそれを冗談と受け止める余裕はなかった。
「まじめな話なんだ。茶化すな」
それを受け「ただ事ではない」と把握した操は、
「はいはい…」
と、真実に促されるまま診察室に向かった。
デスクに座り、患者用の椅子に座るよう顎で示すと、
「看護師は?」
と、真実は周りに誰もいないことを確かめた。
「休憩室にいるだろ。2階は知らないけど」
2階は入院患者の病室と新生児室だ。昼食が終わり、午後3時からの面会に備え、新生児にミルクを与えている時間だろう。
「そっちはいいよ。なんかあれば内線が入るだろ」
「なんだい、あらたまって」
その言葉を受け、真実は大きく息を吐く。
「特患のことだけど…」
「だろうね」
自分が院に到着したと同時に出ていった赤いスポーツカーを思い浮かべる操。
(なんて言う…?)
言葉を選んで話しあぐねていると、
「なんだい、なんか病気でも抱えてんのかい。それとも厄介ごとでも頼まれたのかい?」
せっかちな操は、先んじてまくし立てる。だが、あながち間違ってもいない指摘に、
「ンぁ…あぁ。筋腫があるんだ…」
素直に答える。それは嘘ではない。
「難しいのかい? こそこそしてるから、もっと…」
操なりにいろいろと推測してはいるようだ。
「あぁ、めんどくさい患者ではある」
「めんどくさい? 筋腫が?」
「いや、筋腫はそれほど邪魔してるわけではない。ただ…」
言葉にしようと思うと、なかなか適当な単語が浮かばない。
「彼女、高校の同級生で、今女優やってる」
「へぇ…」
そんな患者が来るのかい…と、ミーハーな母親は固い表情を崩した。
「お忍びかい…? だれなんだい」
途端に口元が緩んでいく。
「そういうこと。名前聞いても知らないだろ」
「なんだい、バカにして。女優くらい…あぁ、テレビに出るような女優じゃないのかい」
(まったく…ミーハーめ…!)
「まぁ、いい。…だから、ファミリールームを長期で貸切るんだとさ」
「いいじゃないか。今あそこに泊まる患者はいないだろう?」
「そうなんだけど」
「気に入らないのかい? 仲悪かったとか」
「そういうんじゃなくて…患者に仲良しもなにも関係ないよ。でも『保護しろ』って言ってるくらいから、当然看護師も縛ることになるし、」
「それは仕方ないだろ。今はインターン抱えてるわけでもないし、あの部屋は料金も倍だし。空いてると頭の黒いネズミがちょいちょいシャワー浴びにやってくるからね」
(バレてやがる…)
「少なく済ませたいなら、あたしもそっちに回るよ」
言いながら操は立ち上がる。もう話は済んだものと思ったらしい。
「あぁ。そうしてくれると助かる。人選どうする?」
診察室を出ようとする背中に話しかける。
「婦長と相談するか…」
ひとりごとのように言って、操は診察室を出て行ってしまった。
「はぁ…まだ話し終わってないっつーの」
頭を押さえながら机に肘をつく。
(結局、言えなかった…)
なかなか本題を口にできない真実だった。









まだまだ未熟者ですが、夢に向かって邁進します