小説『オスカルな女たち』34
第 9 章 『 結 論 』・・・2
《 孤独な闘い 》
女が子を宿す・・・・
「妊娠する」ということは、元来とてもおめでたく素晴らしいことだ。だが妊婦がみんな〈幸せ〉なのかと問われれば「そうだ」と大声で答えられるわけではない。
〈てっきり風邪だと思って…薬を飲んでしまったんです〉
〈腰痛と思い込んでレントゲン検査してしまって…〉
〈妊娠でアトピーがひどくなってしまって…ストレスが〉
当然ながら、それらの妊婦の言葉はすべて「胎児が心配」ということだ。
いくら技術が発達しているとはいえ、生まれてくるまでは解らない胎児の〈安全〉や〈無事〉を無条件に信じていられる精神の強い妊婦などどこにもいない。事実、産婦人科にて「妊娠」を告げられると同時、五体満足で生まれてくる赤ちゃんは「4割から6割」だと出産に対する危険性も併せて告げられる。たとえ経産婦だろうと初産だろうと同じこと、生まれてくる子どもに個性があるように妊娠ひとつとってもなにひとつとして同じということはないのだ。
〈飲んじゃったものは仕方がない。これから気をつければいいんですよ〉
〈心配しても過ぎたことは戻せない。気になることは細かく検査していきましょう〉
〈ストレスはアトピーじゃなくてもあるんです。上手に付き合っていくしかないですね〉
妊娠ばかりではないが、解らないことはその道のプロである医師の言葉を信じることしかできない。どんなに気丈だろうと、待ち望んで気構えがしっかりしていようとも、途端に〈弱者〉のような気分に落ち込むものだ。
だが、不満や不安を容易に口に出せる妊婦もいれば、それを恥と感じて言い出せない妊婦もいる。妊娠の兆しが表れた瞬間から「嬉しさ」と同時に「恐れ」も背負い込むということをそうして初めて体感する。ゆえにその道のプロと呼ばれる医師は、迂闊なことを口にしてはいけない。「絶対」とか「大丈夫」などという言葉は求められても言ってはいけない。それは自分を擁護するわけではなく、たとえその時必要な言葉であったとしても、逆に不安をあおることにもなりかねないということだ。その道のプロだというだけで相手は「なんでも知っている」はず「なんでもできる」はず「なんでもやってくれる」はずと過剰に依存傾向に思い込む患者も少なくはないからだ。
「若い患者さん増えましたね」
助産師になりたての〈井坂ひかる〉は楓の後輩で、普段は入院患者の診察時と新生児のケアが主なため、真実(まこと)に就いて仕事をすることは少なかった。が、現在特別患者である〈花村弥生子(やえこ)〉の専任看護にあたっており、弥生子の入院来真実とのシフトが当然に増えた。
「そうなんだよねぇ…女医ってのが頼りなんだろうけど…」
(苦手なんだよなぁ…ガキは)
伸びをしながら頭をかく。
そんな真実の気持ちを知ってか知らずか、
「操(みさお)先生にも任せたらどうですか?」
と、少々無茶ぶりな提案を持ち掛ける。
「ダメダメ。バーさん、説教始まって仕事終わらなくなるから」
「でも…ちょっと仕事詰めすぎじゃないですか」
「説教のあと、くどくど文句言われながら仕事増えるよりマシ」
ひかるは一瞬きょとんとしたようだったが「それもそうですね…」と、普段の真実とのやり取りからその母親である操の気性を想像して苦笑いする。
「これ、どうしましょう…?」
「え? あぁいい、やっとく」
言いながら真実は、机の上に重なる書類の山に目を移す。
几帳面なひかると日勤をこなすようになってから、真実は自分の事務仕事が増えたように感じていた。いや実際増えたのだ。楓には言わなくても自分でこなすような事務仕事も、ひかるはいちいち真実に確認を求めてくるので、今のように「いいよ、やっとく」が口癖になったためだった。
「今日はもう、午前中は終わりでしょうか?」
「いや、今、駐車場に車が入ってきたから、ちょっと待ってみよう」
「はい…」
こんな会話も楓との間には必要のないことだった。とはいえ、ひかるの仕事は確認が多い分間違いはなく、丁寧で患者受けもいい。そしてなにより、
(語尾を伸ばさない…標準語が気持ちいい~)
とはいえ、物足りなさを感じているのも正直なところだった。
「昔は生理不順くらいで病院なんか行かなかったけどな…」
真実は少し考えるようなしぐさをして見せる。
「若い子でも深刻な婦人病に悩んでる子はいますからね。不妊症や不育症の心配もありますし、早いうちに婦人科慣れしておくのはいいことだと思いますよ」
診察ベッドのタオルを替えながら、ひかるは真面目な回答をくれる。
「まぁ、確かに。昔ほど狭き門でもなくなったか…」
それにしたって…と、このところの若い患者を思い憂う。必ずしも生理不順や生理痛といった当たり前に体を心配しての診察に訪れる患者ばかりではないからだった。
若い身空で「堕胎の相談」に来る学生、結婚をしていても「ピルの処方」を望んでやってくる若い主婦、鬼の形相で「生まれた赤ん坊の里親を探してくれ」と懇願する若い母親のそのまた若い母親(保護者)など、やりきれない問題を抱えてやってくる者があとを絶たない。
「子どもは誰でも平等に産めると思ってる。いつでも自分の望むときに、本気でコウノトリが運んでくると信じてやがる。命はそんなに簡単じゃない」
これでは玲(あきら)に「子宮フェチ」と言われても仕方がないか…と思う。
(もっと教育番組的なお堅い言い回しはないもんかね…)
真実は〈子宮フェチ〉と言われることにだいぶデリケートになっていた。このところのどうにも心騒がす状況に過敏にならざるを得なかったのだ。
「真実先生、露骨に嫌な顔するから…みんな怖がっちゃって…」
思い出したのか、ひかるは小さく遠慮がちに笑った。
「なめられちゃいかんでしょうが…」
「それはそうですけど。もう少し愛想よくした方がいいと思いますよ?」
「ダメなんだよ、顔が強張っちゃって…。みんな美古都(みこと)に見えちまう」
どうしても思春期の我が子の顔がちらついて、ついつい重ねて考えてしまうのだ。
「来年中学生ですよね? まだ早いんじゃ…」
そう言いかけて、中学生の娘に「ピルの処方」をしてくれとやってきた若い母親を思い出して口をつぐんだ。
「また、なにか揉め事ですか…?」
言われて図星の真実ではあるが、
「最近はケンカにもならないよ」
と、つまらなそうに応える。
いつか玲が「娘と対話ができない」と言っていた・・・・。
中学時代の真実は母親が嫌いでほとんど口を利かない時期があった。操(母)は、まだ真実が幼いころから、医院を切り盛りしながら女手ひとつで真実を育てくれた。それについて感謝はしているが、いつも「仕事、仕事、」で周りには「放任主義」を気取っていながら、こと真実のプライバシーになるとやたらと介入したがるその過保護ぶりが鬱陶しくてならなかった。玲の言葉を借りて言えば「当時母親との関わりがなかった(絶っていた)」自分は、今中学生になろうとしている娘相手になにをどう言えばことが穏便にすむのか、まったく解らないと言っていい。
そして今、自分もまた母親と同じ「母子家庭」で娘を育てている。自分は「そうはならない」と、子ども自分に心に思っていながら結局同じ道を辿ってしまっている。それについては大いに反省すべき点かもしれないが、それは真実の気性も影響してのことだった。
「美古都ちゃん、いい子ですよねえ。ケンカなんか想像もつきませんけど?」
「女同士、同じ屋根の下に3人。一番いちゃいけない取り合わせでしょ。息子ならよかったよ。殴れば済む」
「また、そんなこと言って…」
「そうだけど…」
(いじめてるみたいで喋りたくない…)
また今日も泣かせてしまった。
(あたしも我が子には気を遣えないか)
いつか自分の方が泣くことになるのだろうか…とふと考える。
既に「嫌われている」と思っているし、自分がいなくても操のおかげでなんでもひとりでこなせるように育っている。そんな彼女(娘)が、どうも昔から苦手だった。
「難しい年頃ですからね」
「そんなときがきちゃったかー、って感じだよ。あたしと違って真っすぐなもんで、ついついからかいたくなる…それ、やりすぎたんだろうなぁ。最近は褒めても信用されない」
自分のせいだとはいえ、結果厳しい口調になりだんだんイライラして爆発、それがこの頃の真実母娘の会話の行きつくところだった。意地悪したいわけではないのに最後まで穏やかにいられない。
(あたしの性格なんだろうけど、今更大人になれないよなぁ…)
「かわいさあまってってやつでしょうか…まるで父親みたいですね」
その様子が想像できるだけに思わず笑みを漏らすひかる。
「父親…そうかも。母親は操先生がやってるもんな」
「女3人じゃないじゃないですか…」
「いうね」
「たまには自分からあやまってみたらどうですか?」
「あやまる理由が見つからない」
心の本音がつい言葉に出てしまった。
「真実先生って…かわいいですね。楓さんがなんであんなになつくのか解る気がします、ふふふ…」
「あたしは解らない。かわいいとは無縁だ」
「だからって、若い患者さんと比べちゃかわいそうですよ」
「そういうんじゃない。そういうんじゃないけど」
作らないのではなく、作れない人もいるということを忘れてい・・・・と、今は「出産」の望みを絶たれた織瀬(おりせ)のことを考えてしまう真実だった。
と、その時、診察室の扉がノックされた。
「はい」
「最後の患者さん入りま~す」
最近すっかりご機嫌斜めの楓が、真実の顔も見ずにひかるにカルテを手渡して出ていった。
(懐かしい語尾…)
それをひかるから受け取りながら、
「はいよ」
溜め息をつく真実に、
「楓(あちら)は早々にいいわけか謝罪をおすすめします」
特別患者の専任を楓の代わりに命ぜられたひかるは、入り口に向かいながら「御承知の上でしょうけど」とドアノブに手をかけた。
「はい、はい、」
言いながら真実はカルテに目を落とし、
(また若いか~ちゃんか…)
小さく溜息をついて聴診器を首にかけた。
そしてなぜか診察後、その「若いか~ちゃん」はなかなか席を立とうとしなかった。
「まことせーんせっ」
ひかるが受付にカルテを持って出た後も、なれなれしい言葉をかけてくる「わかいか~ちゃん」。
「はい。なにか」
顔を見ずに答える真実。
「まことせんせー」
「はい、聞こえてます」
少々語気を荒げ、顔を上げる。
「そうじゃなくて、」
(なんだよ)
「わたしのこと、覚えてませんかぁ? おねーさん」
「は?」
(おねーさん…?)
「えーと高遠さん、里帰り出産ですね。なにか問題でも?」
「そうじゃなくて、カルテ。名前、ちゃんと見えてます?」
「…カルテ。はい、見えてますよ。高遠…麻琴、さん…。まこと…?」
「はい」
顔を見て、
「まこと?」
「はい」
「まことかー!」
「はい、思い出しました?」
満面の笑みをたたえる〈高遠麻琴〉なる妊婦、因縁の「まこと」つながり。
「なんでここにいる」
「だから、里帰り出産ですって。ぜひ真実ちゃんのところで、と」
「そうじゃないだろ…」
お腹を見る。
「やーだ。佑介の子じゃないよ」
キャラキャラと笑って見せる。
「いや、解ってるけど」
そうだ、この女は、佑介と、
(何番目だっけ…?)
数年前の何度目かの元夫の浮気相手で、真実とは彼女が幼少期の一時、戸籍上で姉妹だったことのあるもうひとりの、いや吉澤家の『まこと』だ。
「や―っと気づいてくれましたぁ?」
「気づくわけないだろ。むしろスルーしてほしかった」
「なんでよー? わたし大人になったでしょう?」
「あ? まぁ、確かに…。髪、黒いし」
一緒に住んでいた当時はまだ幼子だった麻琴。養子縁組が決まったあとは会っていないが、次に顔を合わせたときは佑介に補導され家出少女となっていた。その時彼女は、髪も服も持ち物もすべてが赤で統一されていた。今は、
(黄色?)
服装がまぶしい。
「そこぉ?」
佑介に補導されたヤンキー娘が、あろうことか佑介に一目惚れ、本人曰く「たぶらかされた」と訴え、挙句の果てに逆恨みして医院で暴れてひと騒動と、奇妙な再会劇だった。すっかりと忘れていた思い出したくない因縁の過去だ。
「おねーさん。再婚しないなら、なんで佑介とヨリ戻してあげないの? 佑介、あんなに真実ちゃんのこと大好きなのに…」
(呼び捨てかよ…)
「おまえには関係ない。その、おねーさんとか真実ちゃんとか、やめろよ」
「やーだ、さっきまで敬語だったのにぃ。急に『おまえ』とかときめく~」
「あほか。さっさと帰れ」
デスクのライトを消して立ち上がる。
「相変わらずなんだな~真実ちゃんは。…じゃ、また来週お願いしま~す」
(語尾を伸ばすな、語尾を…!)
「来週も来るのか…?」
出産を控えているのだから当然だ。どうにも、真実の身辺に静けさが訪れることはないらしい。
「おい。操先生に挨拶していけ、奥にいるから」
「は~い」
後ろ姿を見送り、大きく息を吐く。
「よし、今日はカレーだ」
なにかあると真実はいつもカレーでリセットする。
気を取り直しお向かいの喫茶店で食事を済ませる。スプーンを持つ手が震えていること以外はいつも通りだ。
院に戻り、再び白衣を着て診察室を出る真実。視界の先に天敵を捉えて舌打ちをする。
(カレー食っといてよかった…)
真実は涼やかな目で母親である同僚を見据える。
「あら、真実。午後は当番じゃないでしょ」
「操先生、院内で呼び捨てはやめろ」
「それが同僚に使う言葉とも思えないがね」
ご機嫌斜めを取り除けば、これがいつもの母娘の会話だ。このやり取りは遺伝するらしい、似た者母娘というわけだ。が、
「麻琴にあった?」
真実は内心、複雑な気持ちを隠せない。
「あぁ。元気そうでなにより。ちゃんと家にも戻ったらしいね」
そう語る操は母親の顔をしていた。院内で滅多に口にしない真実を呼び捨てにしたのも、もうひとりの麻琴に会ったことで気が緩んだせいだろう。
「あいつが母親ね…」
(あたしが、麻琴だったかもしれない…)
そう思うと、操を見る真実の眼光は鋭くならざるを得ない。
「とにかく、落ち着いてくれたみたいでよかったよ。それより、今夜は出掛けるって言ってなかった?」
「あぁ出掛けるよ、つかさんとこに…」
「じゃぁさっさと行けば」
「なんだよ、その言い草は…邪魔者扱いかよ。特患に用があるんだよ」
そう真実が言うと、操は少し顔色を変えた。
「なに?」
特別患者に対し少々思うところ満載の操は、なにか言いたげな表情を隠さない。
「あぁ、なんかまた、大きな荷物が届いてたわ」
「また?」
「見舞いが来るわけでもないから、仕方ないけど…ねぇ、」
「あ~ハイハイ。じゃぁね…」
小言が続くことを遮って立ち去る。談話室の先、廊下を曲がってすぐのところに〈面会謝絶〉と札のかかった少し広い病室〈ファミリールーム〉がある。いつも真実が私用でシャワーを浴びる特別室だ。今は入院患者がいるから、院内でのシャワーはおあずけになっているが。
ただ「ファミリー」と刻印される白紙のネームプレートを見て、2度ノックをして返事を待つ。
「どなた?」
「あたしー」
つい語尾が伸びてしまったことに、再び舌打ちの真実。
白紙のネームプレート様は面会謝絶の特別患者、女優の〈弥生すみれ〉こと真実のご学友である『観劇のオスカル』〈花村弥生子(やえこ)〉だ。
「どうぞ」
まるで合言葉のようなやり取り。うんざり…とばかりに首をもたげて中に入る。
「なにしてんの?」
確かに大きな荷物が運び込まれている。
「御覧の通り、ハイヒールの手入れよ」
ベッドに横たわっているはずの特患さまは、来客用ソファに座り細かく手を動かしていた。
「このでかい荷物は全部ハイヒールか?」
ロッカーの前に積み上げられている段ボールに目を見張る。
「そればかりじゃないわよ」
(そうですか…)
「見舞いがあるわけじゃないし、暇つぶしが必要でしょ」
(かもしれない、が、)
「家から送らせたのか…?」
「入院前に宅配便に預けておいたのよ、日付を指定して」
手を止め、ゆっくりと立ち上がる。
「準備がいいね…」
「なにごとにもね、備えは必要よ」
部屋の角の洗面台で手を洗い、窓際のテーブルに向かう弥生子。
自宅から持ち込んだティーセットに手をかけ、「飲むわよね」と目配せする。
「エンジョイしてるなぁ…」
思わず口をついて出てしまったが、充分に皮肉を込めて言っている。だが、当の弥生子はまったく気にする様子はなく、
「そろそろ来ると思って、セットしておいたわ。今日はローズヒップよ」
言いながら鼻歌を歌い、湯気を立てて紅茶を注ぐ弥生子。
「そりゃ、申し訳ないね」
「いいえ。お安い御用よ」
どっちが患者なんだかわかりゃしない…と、真実は辺りをきょろきょろと見回した。
「しかし、こんなに必要かね…?」
ソファの前には細かく箱が並べられ、さらにその上に高さをそろえてお行儀よく乗せられたピンヒールやらハイヒールを見て「店が出せるな」と皮肉る真実。
「あら、玲さんだってそのくらい持ってるでしょ」
淹れたての紅茶を手に、突っ立ったままの真実に手渡し、自分はベッドに腰掛けた。
「そういうこと言ってんじゃない」
確かに、自分と靴のサイズが同じ玲に以前結婚式用のヒールを借りたことがあったが、ウォークインクローゼットの中は同じような光景だったことを思い出した。
「あぁでも、自分じゃ修理なんかしないか。本物のお嬢様だもんね」
わたしと違って…と、言葉を濁してカップに口をつける弥生子。
「こういうのって、支給されるもんじゃないの? 女優様は」
それまで弥生子が座っていたソファにドサリ…と荷物でもおろすようにして座る。
「あぁ、そういうこともあるわね。けど全部じゃないわ、借りるのよ、あれは。でもこれは私物、プレゼントがほとんどだけどね…」
いちいち語尾に音符がはねたような言い方をする。
「あぁそうですか」
(聞くんじゃなかった)
弥生子は真実がカップに口をつけるのを確認して、
「昔ね、わたしを使ってくれたすけべぇ~な監督が『食事のマナーがなってない女』と『靴の汚れた女』は尻が軽いって言ってたことがあってね…。それから気をつけてよぉく見てたら、枕営業してる女はがっついていてハイヒールのつま先もかかともボロボロだったのよ。だからわたしは、落ちぶれても『身持ちは固いのよ』って意味合いを込めて、常に傷のないヒールを履き、こうやって手入れしてるってわけ…」
「へぇ…」
意外と一途…? いや、
(だったらそのお腹の子はどうなる? いや、いやいや、)
余計な詮索はすまい、余計なかかわりは持つまい、真実はそう自分を制す。
「そんな手間かけるくらいなら、新しいの買やいいじゃん」
何気なく言ったつもりの言葉だったが、
「真実さん。わたしの顔、どれだけテレビで見てるのよ…? 後ろ盾も才能もない女優なんて、そんなに儲かるものじゃないわ。わたしが注目されたのは、高校卒業してすぐに出たCMだけよ」
すねた口調でそっぽを向く弥生子。
「あ? ちゅうりっぷ、か?」
「そう。恋して夢中、ちゅうするための、ちゅう~リップ♪…よく覚えてるじゃない」
当時流れていたCMの歌を歌って見せる。
「まぁ…殊勝だね…」
そういう真実に、再び弥生子は向き直り、
「芸能人って、テレビに映っている人たちのことばかりじゃないのよっ。『自称・女優』なんての、履いて捨てるほどいるんだから…。きらびやかな衣装を着たセレブや富裕層なんて、ほんの一握り。それでもしがみついていられるのは…ん~、夢追い人…だからかしらねぇ…」
いたずらっぽく笑ってカップに口をつけた。
「ゆめおいびと?」
真実にしてみればそれは、なにがなにやら…きょと~んでしかない。
「っそ。わたしはなるべくしてなったのよ、女優に! それはね、才能とか奢りじゃなくね。わたしは生涯の居場所としての就職先を『女優』と定めたの。自分の夢を叶えられる人間なんて、この世の中にどれくらいいると思う? あなたは今の姿が夢だった? わたしは幼いころから『ここで生きていく』って決めて就職先に芸能界を選んだ。そりゃ、いいところとは言えないかもしれないけれど、職場の悩みなんてみんな持ってるし、いずれにしても働かなきゃ生きていけない…でしょ? 特別でもなんでもない、なんら変わりはないのよ。わたしも、あなたも」
「はぁ…」
迂闊だった。
(ちょっと、かっこいいじゃないか…)
そう思う自分を、「丸くなったか」と思う。
「真実さん、聞いていいかしら?」
「答えられる範囲なら」
意表を突かれ油断した真実は、悠長に紅茶を口に運ぶ。
「どうして離婚なさったの?」
「ぶ…っ」
思わず紅茶を取り落としそうになる。
(直球かよ…?)
「答えられない質問かしら…?」
(いやな言い方するなぁ…)
「べつに、昔のことだし…」
ここでうろたえるわけにはいかない。
そ。なら…と、弥生子は次々と質問を繰り出した。
「浮気でもされた?」
「そりゃ、しょっちゅう」
「帰ってこないとか」
「それも、しょっちゅう」
「金遣いがあらい…」
「そうね、一部をとっては…」
人が良すぎる祐介は、自分が捕まえた悪党にていよく騙され、よく返ってこないお金を貸していたことを思い出す。
(なんだか腹が立ってきた…)
「思い出したくない」
「大酒のみ…酒乱?」
「それはあたしだ。やつは下戸」
「子どもを顧みない」
「…そう、でもない…かな…?」
子煩悩と言えるかどうかは解らないが、とりあえず子どものことは考えているようだ。とは、ここ数か月の佑介の行動からも見て取れる。
「歯切れが悪いわね」
「だって、一緒にいないから。それでも会いたがるし、特に問題ないかと」
「ふーん。嫌いになった理由は?」
「特にない。いや、最初から…か」
「話にならないわね」
「いや、待て。浮気してるじゃン」
おかしいだろう…と真実は言葉を遮る。
「浮気でしょ? その程度が打撃とは思えないわ」
(まぁ、確かに)
「だから、よ」
「なにが、よ」
「真実さんに、別れる理由が見つからない」
「あ…」
痛いところを突かれた。
おかしなことになってきた。だがこのまま引き下がるわけにもいかない真実。
「医院(ココ)にもしょっちゅう女が怒鳴り込んでたし…」
「相手にもしてないでしょうに」
(なぜわかる?)
「帰ってこないって言ったじゃん」
「それは仕事がらお互い様でしょ」
(なんだ? なんだ? やりこめられてるぞ)
「すれ違いが原因なわけ?」
「ん? ちょっと、待て。誰に吹き込まれた。…仕事のことなんか知らないはずだろ?」
先ほど病室に訪れる前にすれ違った天敵を思い出す。
「お袋さんか…!」
「あらばれちゃった…」
舌を出す弥生子。
(あらばれちゃったじゃないよ、あぶねーあぶねー。すっかりそっちのペースだよ)
「暇に飽かせて、人をダシに会話を盛るな」
「でも、お母様の話を聞いてるうちにわたしも興味が湧いたのは事実よ」
「もういいじゃん」
そう言って立ち上がり、真実は窓際のテーブルにカップを置いた。
「真実さん、里子の話は進んでるのかしら」
「あ? あぁ…」
不意の言葉になんの用意もない真実は、ポーカーフェイスも形無しだ。
「やっぱりね…。お母さまのあの様子だと、なんの進展もなさそう…」
「話したのか? おふくろさんに…!」
「やだ、コワイ。そんな…」
「いいから! 話したのかって聞いてんの」
「話してないわ…一応、主治医はあなたですもの。でもね、」
こっちもこっちで生まれてきてからでは遅い…と、話を続けたい弥生子だったが、少々大げさすぎる真実の態度を訝しんだ。
「なんなの? なにかあるの?」
「は…」
(よかった…。でも、潮時か)
そんな弥生子の疑いの眼差しなど気づく余裕もない真実は、その場をやり過ごし去ろうとする。
「まぁいいや、今夜はあたしいないからおとなしくね」
いい終えて、出口に向かう。
「あらどちらに?」
「同級生のおうちに引っ越しの手伝いに」
わざと勿体つけた言い方をする。
「今から?」
「今夜は前夜祭。とにかく、例の件については、もう少し時間を…」
「真実さん。なにか話があってきたんじゃないの?」
「え…」
「診察以外で、ご機嫌伺いでもないでしょうし。わたしの話し相手をしてるほど暇じゃないはずよね? 今夜は予定があるみたいだし…? ホントはなにしにいらしたの?」
さすが女優というべきか、実にいやらしい目で疑いを掛けてくる。
「あ~」
(なんでそんなとこばっかり鋭いんだ…?)
でも事実はそうなのだ。弥生子に確かめたいことがある。
先週は織瀬の件でそれどころではなかった。昨夜も急なお産で深夜に呼び出しを食らったまま、今朝は時間を押しての開院、診察だった。午後からは当番ではないし、出掛けるまでの貴重な時間をいつもならさっさと帰って今頃は高いびきのはずだったのだ。相手は患者で、しかも厄介な患者で、ここは職場だ。かつてのご学友を労い、話し相手をしてやるつもりで病室にやって来たわけでもない。
「なにか、あった…?」
探るような目をする弥生子に、
「まぁ…ね」
真実は観念して腕を組んだ。本音はこのままやり過ごすのもありかと、ずっと言い出せずにいたのだ。
「わたしのことじゃないわね…」
「まぁ…」
「なによ、ますます歯切れが…もしかして、」
「アンドレ会って知ってる?」
余計なことを突っ込まれないうちに、真実は自分から…と口を開いた。
「アンドレ会?」
それは3週間前、真実にとっては同僚の『快進(回診)のオスカル』こと〈如月遥〉に連れられて行った「同窓会」と称する集まりのことだった。
「そう。確か、アンドレ…」
「アンドレって、あのアンドレ?」
「いや、わかんないけど…どのアンドレ、か」
(あれ? もしかして…これは、地雷を踏んだ、か…?)
「オスカルの、恋人でしょう?」
「そうなの? ひとの名前?」
「なんだと思ったの? オスカルって呼ばれていながらアンドレを知らないの?」
「知らないとダメなの…? え? 重要?」
「オスカルに対して、アンドレってこと?」
弥生子は含み笑いをして真実を黙らせる。
「いや、もういい。知らないなら」
(言葉を選べばよかった~。同窓会から行くべきだったか…)
後悔先に立たず、出直したい真実。
「知ってるわよ。遥が行ってるやつでしょ」
「な…」
(こいつ…)
いつまで冷静を保っていられるか、既に醜態をさらしているのか、もうどうにでもなれという心境だった。
「実際に存在するとは思ってなかったけど」
へぇ…と、弥生子は意地悪く笑った。
(よっぽど暇なんだな…面白がってやがる)
そうは言っても気になるのは事実で、
「行ったことある?」
話をたたむわけにもいかない。
「ないけど…それがどうしたの? まさか、真実さん、やっぱり…」
(やっぱりってなに!)
「ちがう、ちがう、あ~。連れていかれたの、その~遥に」
「うそ」
「今さら嘘いうかよ」
「どんなところだった?」
たちまち弥生子の目が輝きだしたことは言うまでもない。
(あ~やっちまった~。失敗した~)
後悔先に立たず、もう出直せないと観念するより外ならなかった。
まだまだ未熟者ですが、夢に向かって邁進します