小説『オスカルな女たち』50
第13 章 『 再 起 』・・・2
《 大切な・・・・ 》
Pu. Purr… Pu. Pu. Pu. Pu. …
(内線…)
暮れも押し詰まったある日のことだった。
「はい…」
「真実(まこと)先生、来てください。患者さんが…」
半ば叫び声のような看護師の声に、
「すぐ行く」
立ち上がりながら受話器を置いた。
少し前に脱いだ白衣を引っ掴み、足早に診察室を出る。
「今度はなんだよ…」
言いながら、正月飾りが載せられた受付前を通り過ぎ、玄関先の門松を横目に奥の〈ファミリールーム〉へと足を急がせた。前日から正月休みになった院内は照明もスポットライトのみと薄暗い。
談話室の前を通り過ぎる頃にはすでに騒がしさが耳に届いた。
「なにやってんだよ」
ノックもせずに病室のドアを押し開け、
「どうした?」
一歩足を踏み入れると〈特別患者〉担当の看護師〈井坂ひかる〉の腕を振り払い、身支度をする女優の〈弥生すみれ〉こと〈花村弥生子(やえこ)〉の姿が目に入った。
「先生、止めてください…!」
「なにやってんだ…!」
「あら、真実さん。外出許可をお願い」
そう興奮気味で話す彼女の眼はうつろで、焦点があっていない。それどころか見たこともない顔つきをしていた。
「なに言ってんだ。許可なんか出せるわけないだろう」
すぐさま駆け寄り、肩を掴む。
「だって、わたし、行かなきゃ…」
たどたどしい言葉を繋ぐ弥生子に、
「どこに」
「ど、どこでもいいじゃない…!」
言いながらコートのボタンを締めようとするが、当然ながら前身ごろが収まるはずがなかった。
「やだ、どうして…」
まるで膨らんだお腹が見えていないかのような言動に、真実もさすがに「これはヤバイ」と思わざるを得ない。
「わけわかんねぇ。理由もなく外出させられるか!」
無理矢理ベッドに座らせ、
「それにお前、昨日から熱が出てるじゃねぇか…!」
「こんなの微熱でしょ」
そう語る弥生子の顔は微熱どころの問題ではないくらいに紅潮していた。
「それが微熱の顔かよ」
「知らないわよ、わたし医者じゃないもの」
いつになくわがままに吐き捨てる。
「自分の状況解ってるのか…?」
「あなたこそわかってないわ…」
そう言いながら立ち上がろうとする弥生子を押さえつけ、
「興奮するな!」
そう言って弥生子の頬を「ピシャリ…」と弾いた。
「きゃ…」
「落ち着け!」
そこで初めて、弥生子は真実の目をまっすぐと見た。途端にボロボロと大粒の涙がこぼれる。
「だって…わたし…!」
言いかけて苦しそうに飲み込む弥生子。
「はぁ…」
(そりゃないだろ)
「ごめんよ」
そう言って叩いた右頬に手を添える真実は、振り返らずに、
「体温計と血圧計持ってきて」
すぐさま厳しい口調でひかるに指示し、
「それと、おり…。あ~、ぇぇと、あたしのデスクの電話帳見て『樋渡(ひわたり)』さん、すぐ来るように連絡して、あ~携帯の方」
もどかしさから、意味もなく左手で空を切る。
「はい…」
ひかるは素早く部屋を出た。
「大丈夫か?」
「ぁぁxx…」
興奮気味の弥生子の脈を取り、おでこに手を当て、腕時計を見る。次に枕もとのティッシュを数枚とって涙を抑えてやる。
「ゆっくり呼吸して…。焦んなくていい、どっか痛くないか? ほら、ふぅふぅふ~…そうそう、ゆっくり」
「あ…」
「いい、いい。無理にしゃべるな。過呼吸になるところだったぞ」
「ぁ…ぁあ。真実さん」
ようやっと真実を認識できたような様子で、大きく息を吐く。
「どうした…らしくねぇな、取り乱して」
そんなやり取りの中、バタバタと廊下を駆ける音がして、病室がノックされる。
「はい」
「真実先生、血圧計と体温計です」
「ソファのとこ置いといて、あとはいいから」
「はい。…樋渡さん、すぐ来るそうです」
「はい、ありがと。来たら診察室に通して…」
「はい」
静かにドアが閉じられ、
「ごめんなさい…」
待ち構えていたように弥生子は真実を見据えた。
「お腹、張ってないか?」
言いながら真実はソファの上の血圧計を手にし、手際よく作業する。
「えぇ、えぇ…」
弥生子は、ひとつ息を吐いて、お腹に手を当て「少し。でも大丈夫。痛くはないわ」と答えた。
だが弥生子は、落ち着くと同時に再び涙があふれ、どうしようもできないらしく素手で涙を拭っている。その仕草にはいつもの余裕は見られず、真実の目にはまるで子どものように映った。
「話せるか? それとも、あとにする?」
血圧計を外し、ベッドに横になるように促す。
「ちょっと、今は…」
真実は体温計を渡して布団をまくり上げ、
「少し寝た方がいい」
枕を整えてやる。
「そうね、そうする」
体温計を挟みながら、ゆっくりとベッドに戻る弥生子。
「ひとりで平気か?」
「えぇ、もう大丈夫」
「ホント? 薬は?」
「えぇ。いらないわ」
体温計のブザーが鳴り、ゆっくりとそれを取り出す弥生子。
(また、上がったな…)
「すぐ、織瀬(おりせ)が来る。あたしより、織瀬の方がいいだろ」
ゆっくりと布団をかけてやりながら、枕もとの携帯電話に目を落とした。
(なにか、見たのか…)
「点滴した方がいいな」
この部屋のテレビはあらかじめ撤去されている。入院時、長期になることを想定して確認した際「俗世を離れたい」と弥生子の方から拒んだためだった。ついで「情報は携帯があれば得られる」とも言っていたことを思い出す。
「なんか飲む?」
「えぇ…ありがとう。大丈夫よ」
「黙って出掛けるようなことするなよ。ここまで頑張ってきたんだ。自分で自分の人生、棒に振る気か」
「解ってるわ」
解かってる…弥生子はもう一度そう言って、両の腕で顔を覆った。
「言ってくれたら手伝いに行ったのに…」
電話連絡からほどなくして織瀬が医院に駆け付けてきた。
「家具付きのところにしたから。自分の身の回りの物だけだったし」
引っ越しを終え、ちょうどマンションに鍵を返しに戻る途中だった…という織瀬は、思いのほか早い到着だった。
「玲(あきら)はいい仕事したのか…?」
「うん。ペットOKの女性専用マンション、ここからだと少し遠いけど」
申し訳なさそうに語る。
(酒飲んで一緒に帰ることももうなくなる、か…)
「いろいろと相談に乗ってくれてありがとね」
おそらく織瀬なりに、真実に気を遣ってくれているのだと解る。
「あたしはなにもしちゃいない」
織瀬が弥生子の子どもを引き取ると決めてから、離婚、引っ越しとトントン拍子に事が運び、真実は少し空虚感を覚えていた。そんなことはないと頭では解っていても、疎外されているようでさみしかった。
「それより…。年明けまで来るなって言われたって?」
「うん」
(それなら、あの行動はやっぱり…)
「ネットかなんかみたのか、思いのほかナーバスになっててなぁ…」
気を紛らわすようにして回転椅子を左右に揺らしながら、頭の後ろで腕を組む。
「なにかあったの?」
患者用の椅子に座る織瀬は、バッグを両手で握りしめ前のめりに真実に詰め寄る。
「いや、体調は…おとなしくしてればいいんだ。でも、なんかあったんだろうなぁ、急に『外出許可出してくれ』っていいだして。もちろん無理だろ? 自分だって知られちゃまずいから口止めまでして隠れてんだから。でもなぁ…」
首を後方に倒し、天井を仰ぐ。
「あたしが行っても平気なの…?」
少し不安げに、だがじっとしてはいられない様子が伝わる。
「織瀬の方がいいんじゃねーか?」
体制をそのままに、視線だけを織瀬に傾ける。
「大丈夫かな」
「わかんねーけど。織瀬『呼ぶ』って言ったとき、止められなかったから。それともなんか聞いてる?」
腕を外して織瀬を見るが、織瀬は首を横に振る。
「今、行っても?」
「寝てろって言ってきたけど、万が一コソコソ出掛けられても困るから、逆にいてもらった方がいいんだ。時間大丈夫? あぁ、わんことか…」
「ちょきは今朝からつかさに預かってもらってるんだ。新しいところに置いとくとストレスになるんじゃないかと思って」
「わりぃね。忙しいのに」
その言葉で織瀬は立ち上がった。
「ぅうん。あたしも休みに入ったし。『来るな』って言われても、やっぱり気になってたからちょうどよかったよ」
「微熱が出てんだ。なにがあったか知らないけど、興奮させないでやって」
「わかった。気をつける」
そう言って織瀬は診察室を後にした。
(な~んか、急にたくましくなっちゃって…)
いつもの織瀬なら「大丈夫なの!?」と、蒼白な顔でおろおろするところだったろう。
「もうあたしなんかいらないって感じ…?」
閉じたドアを眺め、机に頬杖を突く真実。だが、すぐに舌打ちして席を立つ。すると、再び扉がノックされ、
「なんか忘れ物?」
今出て行った織瀬が戻ったものと思って振り返る。
「いや…。ねぇと思うけど」
そう言って入口から声を返したのは、
「佑介…? どっから入った!?」
突然の予期せぬ訪問に慌て、戻そうとした椅子を倒しそうになる。
「どこって、玄関だろ」
構わずに中に侵入してくる佑介は、
「そうじゃないっ…だれが入れた。勝手に入ってくんなよ!」
「今まで、操先生のところにいたんだ。なんか騒がしかったし、そのあとは客が来てるっていうから、遠慮してたんだけど…今の、患者?」
たった今まで織瀬が座っていた患者用の椅子に腰掛ける。
「勝手に座るな!」
「別にいいじゃん、だれもいないし」
「だれもいないから言ってんだよ!」
「なんだよ、ひとを侵入者みたいに」
「充分侵入者だろ」
(だいたい最近、出没しすぎだろ…!)
「座れよ。話があんだ」
まるで立場が逆だ。
「あたしはないよ」
「いいから、座れって」
いつになく真剣なまなざしで真実を見据える佑介。
(操先生といっしょにいた?)
「なんでお袋さんと…」
身構える体制を崩し、我に返る。
「話があるって言ったじゃん」
「あぁ。なに、さっさとして」
そこでようやく椅子を引いて自分の席に落ち着く真実。
「オレ、年明けからおまえんち住むことにした」
「は? なんでだよ…!」
「仕事辞めようと思って」
「はぁ!?」
「おまえ、忙しそうだし。かぁちゃん、辛そうだし。美古都(みこと)、会ってくれねぇし」
拗ねた子供のような態度をしてみても、図体のデカさからかわいげのかけらも感じない。
「そんなのおまえに関係ねーじゃん」
「オレ、主夫になろうかと思って…」
「またそんな思いつき…バカじゃねーの? それでなんでうちに住む?」
「今、料理教室通ってんだ」
だが、既に決定しているような口ぶりで、真実の意見は通らない。
「なんで?」
「だから主夫になろうと思って」
「わけわかんねぇ、主夫ってなんだよ」
「だから、お前と操先生のサポート…」
「話にならない」
勢いよく席を立つ真実は、自分でもよく解らないほど落ち着きがなかった。
「なんだよ。今、大変なんだろ? 操先生もだいぶ辛そうだし」
確かに、寒さが増すにつれ、操の腰痛が悪化していることは事実だった。
「帰れ。用は済んだんだろ…?」
奥に行こうとしてまた、こちらにきびすを返す。
「おまえ、大丈夫か…?」
そう言って佑介が立ち上がる。
「操先生より、お前の方が辛そう…」
「なにが! あぁ、イライラする…」
なにをしたいのかが解らない…と言った様子の真実に、
「いや、なんとなく。…それより、もう休みに入ったんじゃねーの?」
様子がおかしいことを察した佑介は、思いつく限りの会話を投げかける。
「あぁ。そうだけど…? 病院が休みだからって患者はいるんだよ」
「じゃぁ今すれ違ったのは見舞いか?」
「あ? 見舞い?」
(織瀬…か?)
「いや、まぁ、そうか」
頭をかきながら、佑介はなにか勘づいたようだった。
「なんだよ、歯切れわりぃな。…なんかしたのか?」
訳も解らず身構える。
「なにもねーよ。ちょっと目が合ってお辞儀されただけだ」
「そうか」
ほっとしてやっと動きを止めた真実は、
「かわいかっただろ…?」
イヤな目つきで、あえて自分から振ってみる。
「うん…。ぇ、あぁ…オレは全然、真実の方が」
「そういうことじゃねーって。前に言ったろ?」
普段ならそんな風に煽るような真似はしない。だが、なんだか今はむしゃくしゃしていて絡みたくなったのだ。
「え? かわいい? それって…」
今すれ違った彼女を言っているのか…と、目で訴える。
「そう。彼女だよ、あたしの好きなやつってのは」
少し興奮気味に上ずった声で答える。
「ホントだったのか…」
「冗談だとでも? なんだよ、こないだはやけに理解ある口ぶりだったくせに」
ちょっと得意げに腕を組む。いつになく佑介をやり込めたい気持ちが湧いてきて、口が止まらないのだ。
「つきあってんのか?」
多少なりとも気分を逆なでされたのか、
「相手は知ってんのか?」
入り口のドアを振り返る佑介に、
「ん、なわけ。どうでもいいだろ、そんなこと。てか、お前、ホントにどうかしてるぞ」
後を追われては困る…と、真実は言葉で後を追いながらも、振り返る佑介の目が潤んでいるようで、
「なんだよ」
たじろいで後ずさる。
「相手はお前の気持ち、知ってんのか?」
拗ねた目つきで問いかける。
「知ってるよ『好きだ』って言ったもん」
「それで?」
「それだけだよ」
「なんで?」
真実の肩に掴みかかる。
「なんだよ、放せよ」
「それでいいのか?」
肩を掴む手に尚も力が入る佑介。
「なにがよ? いいも悪いも、ねぇよ。放せよっ」
肩を左右に振るが、さすがに本気で掴まれては容易に外せない。
「おまえ、それでいいのか?」
憮然としたまま再び真実に言い迫る。
「うるせーなー。どうでもいいだろうが」
無理に肩を外そうと真実は身体を捻る。油断していたのか、気持ちが拗ねていたせいなのか、真実は佑介に唇を許してしまう結果となった。
ボコ…っ
「なにやってんだよ、気持ちわりー!」
怒鳴りつけると同時、真実は佑介の右頬に渾身の左ストレートを決め、その手の甲で唇を拭った。
「いって…」
「あたりまえだ…! 痛くしてんだよ」
だが、自分のその声が、涙声になっていることに気づく。
(あれ…)
すかさず真実を抱きしめる佑介。
「だから、言ってんのに…」
「だからって、なんだよ…」
だが今度は、殴ることはせず、ただされるがままに佑介の腕の中で脱力した。
「おまえ、泣いてんじゃん」
「いうな!」
直立不動で棒立ちのまま、真実はしばらく佑介の腕の中で涙を流した。
「ホント、不器用なんだよな」
「うるせ…」
(なんだよ、これ。どんなタイミングなんだ)
まるで失恋したみたいだ…と、真実は心の中でつぶやいた。
コンコン…と、静かにノックして、織瀬は返事を待たずにドアを開けた。
「こんにちは…」
静かにあいさつし、部屋の奥に目を配る。いつもは見ない点滴スタンドが痛々しく感じる。
「あぁ、織瀬さん」
「あぁ、そのまま」
体を起こそうとする弥生子を制し、ベッドの脇に駆け寄る織瀬。
「熱があるって聞いたけど」
「たいしたことじゃないの。そんなことは…」
言いながら、既に泣きはらしたと思われる目から再び涙を流した。
「なにかあった?」
「そう。そうね…」
織瀬は、部屋の隅に立てかけてある折り畳み椅子を運び、弥生子の枕元に腰かけた。
「ざまぁないわね、こんな姿見られるなんて」
「たまにはいいんじゃない?」
そう言ってついと枕元を見ると、電源の消えかけたスマートフォンが目に入った。
それに気づいた弥生子が、
「ニュース見た?」
点滴のしていない方の右手で、スマートフォンに手を伸ばし、
「はい…」
織瀬はそれを弥生子に持たせた。
「ニュースって?」
弥生子は器用に右手で画面を操作し「これよ」と言って、織瀬に画面を見るよう示唆した。そこにはかつて〈巨匠〉と呼ばれた映画監督の訃報が記されており、
「覚悟はしてたの」
ぽつりと弥生子が言った。
「覚悟?」
「入院の前に、きちんとお別れは済ませたんだけど、まさか本当に逝ってしまうなんて」
「え? この監督さんと親しかった…の?」
言ってしまって「はっ」とする。
「まさか…」
「わたしの主演映画、彼の遺作になったわ」
「ぁ…そうなんだ」
一瞬、お腹の中の父親…かと疑った。
「え、主演映画!? 聞いてないけど」
「言ってないもの」
淡々と返す。
「でも、宣伝広告くらいは出てるわよ。…てか、あなた芸能ニュースにひとつも興味ないのね。まぁ、真実さんもだけど。ちょっと、起こして」
そう言って弥生子は布団の中で身体をよじる。
「テレビ見ないの…?」
織瀬は枕を背もたれにたてかけ、
「見てるとは思うけど」
曖昧に答える。
「それどころじゃないってこと…? あるいは、よっぽどわたしに興味がないってことよね」
「ごめんなさい…」
「謝らないでよ、よけい惨めになるわ」
「ごめ…ぁ…」
「…もう、ほんっと。あなたたちって退屈させない人たちね」
言いながら弥生子は少しだけ口の端で笑った。
「あなたのお友だちは舞台女優じゃなかった? 少なくともその程度の情報くらいは押さえておきなさいよ。もっとも、注目されてる有名女優なら、前宣伝も派手にクランクアップ前から記者もほっとかないんでしょうけど」
「そういうものなの?」
「そういうものでしょ」
そう言って弥生子は、スマートフォンをタップし、誰かに電話を掛けた。
「わたしよ。…社長、なんか言ってる?」
どうやら仕事関係の人間らしかった。
「まだよ。…えぇ、その変はあんたがなんとかしなさいよ。…年明けじゃないと帰れないわ。どうせチケット用意してくれるほどわたしを欲しちゃいないでしょうけど」
確か〈弥生すみれ〉は、無期限で海外に語学留学をしていることになっている。だが、主演映画の監督がなくなったとあっては、状況が変わってくるのではないか…その程度のことは、理屈を知らない織瀬にも理解ができる。
「あなたは、あとどれくらいかかりそう?」
織瀬はふと「このままここにいてもいいのだろうか」と思い、立ち上がり弥生子自慢のティーセットに手を伸ばした。電気ケトルを持ち上げ、洗面台を指さして弥生子に目配せする。
「そう。それじゃぁ…」
会話を続けながら頷く弥生子。
弥生子が通話をしている間、織瀬は洗面台で水を汲み電気ケトルの電源を入れた。そして「トイレ…」と、声を出さず口パクで弥生子に伝え、一旦病室の外に出た。
「ふぅ…」
大きく息を吐き、これから自分になにができるだろうか…と考える。
「トイレ」と言って出て来たからには、一旦トイレに向かうのが筋かと談話室の方に歩みを進めると、正面突き当りの診察室のドアが開き誰かが出てくる気配があった。
「まこ…」
言いかけて動きが止まる。
出てきたのは先ほど〈ファミリールーム〉に向かう際にすれ違った、長身の男性だった。
「あ…」
こちらもタイミング的に出てきてはまずかったのか…と、きびすを返すが、
「織瀬…!」
真実に声を掛けられてしまった。
逃げるつもりもなかったが、声を掛けられては振り返らずにはいられない。
「どうした」
こちらに向かいながらそう問いかけられ「それはこっちのセリフ…」と思いながらも、
「あぁ、トイレ…もどったとこ」
と、とっさに嘘をついてしまう。
「そっか…」
織瀬も流れから正面玄関の方に足を進め「今、彼女電話中で…」と言いかけてはやめ、聞こえるか聞こえないかぐらいの言葉を発した。
「まだ、いても平気かな…」
「あぁ、全然。もちろん…」
気のせいかいつもの真実らしからぬ空気がそこにあった。そして、
「あ、これ。元ダン…」
お互いが正面玄関の前に来たところで投げやりに軽く手を挙げ、そう紹介した。
佑介と初対面の織瀬には、なるほどいつもと違うのはそのせいか…と思わせた。
「はじめまして。真実さんの友人の、七浦と申します」
織瀬は深々とお辞儀をして見上げる。170センチ近い真実でさえ織瀬は軽く顔を見上げるのに対し、190センチを越える佑介との差は実に30センチ。近づくと余計に圧迫感を覚えた。
「どうも長谷川です。真実がいつもお世話に…ぃてっ」
「なんだよ、その言い草は…!」
不愛想な佑介は真実に脛を後ろ蹴りにされる。
「いてぇなぁ…」
織瀬は目を見開いて恐縮してしまう。
「あ~挨拶もろくにできない公務員で」
いつもの調子で真実が答える。
「そんなこと。そう言えば、警察の方」
「あぁはい。もう辞めますけ…いって」
言い終えないうちに再び真実に蹴り上げられる佑介。
「真実。なにして…」
織瀬はどうしていいのか解らない。
「いいの、いいの。さっさと帰りやがれ」
織瀬に対する言葉と、佑介に対するの言葉のトーンがあからさまに違う。
「へいへい」
佑介は真実の機嫌の悪さを察し、そうそうに靴を履いた。
「じゃぁ、またな」
「それは遠慮する」
相変わらずの冷たい扱いにも慣れた風情で、
「じゃぁ、織瀬ちゃん。またね」
調子よく言い残して玄関を出て行った。
「え? 今『織瀬』って…」
あたし名前言ったっけ…と、小首をかしげる。
「ごめん変な奴で」
「え、いい人そうだけど…」
「外面はね。それよりどう」
向こうは…と〈ファミリールーム〉の方を顎で指す。
「うん。落ち着いてるとは思うけど。さっき、電話してて」
行く?…と、指で促し〈ファミリールーム〉に足を向けた。
「はぁ? また、あいつは」
「仕事関係みたいよ…?」
「ふ~ん」
そうして今度はふたりで病室に戻った。
「おとなしくしてるか~」
ドアを開けると弥生子は、いつものようにお茶を入れていた。
「あぁ、ごめんなさい。やりっぱなしで…」
手持ち無沙汰にお湯をかけていたことをすっかり忘れていた織瀬が、すぐに駆け寄った。
「もう平気よ。ローズヒップでいいかしら…真実さんも飲む?」
ひとまずいつもの自分を取り戻したように見える。
「本当に大丈夫なのか?」
「えぇ、大丈夫。わたしは白湯にするわね、脱水症状になるといけないから」
そう言って涙で体の水分が足りない…と自虐して笑った。
「さっきの話だけど…」
織瀬は「自分にできることはないか」と言いかけると、
「えぇ、あれね。来春公開予定だったけれど…この分だと早まるかもしれないわね。私もこんなところでグズグズしてられない」
そう言って織瀬にカップを手渡した。
「こんなところ…って」
真実が言いかけると、
「大丈夫よ。役目は果たすわ」
カップを突き出して言葉を遮る。まだ、本調子というわけにはいかないらしい。
「ただ…出産いかんでは、筋腫の手術を早めてもらうか、または延期してもらうかもしれないわ」
目じりに力を入れ、そう告げた。
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まだまだ未熟者ですが、夢に向かって邁進します