遺言
ふたりめの子どもを身ごもり、切迫流産して7か月で里帰りをした。
その時既に、私は嫁ぎ先に帰りたくない気持ちでいっぱいだった。
大恋愛というほどではないが、求められて結婚した当時はそれなりにしあわせを感じていた。なんの疑いもなく安寧な暮らしを信じ、子どもの父親と一生添い遂げるものと思っていた。だが結婚が決まった途端、それまで毎日のように訪れていた彼の実家には、どういうわけか違和感を感じ足が遠のいていた。あの頃は自分の中の疑念に蓋をし、それがマリッジブルーなのだと思い込んだ。
しあわせの絶頂の中、最初の子を授かり「自分は祝福されている」と浮かれていた頃が懐かしい。世間知らずのバカな娘は、他人の家の生活くらい「なんとかなる」と過信していた。
なんとなく家庭環境は似ていた。お互いに兄弟がいて、両親と祖父母のいる家。ただひとつ違ったのは、私の家はふつうの一般家庭だったが、相手の家は少し名の知れた家だったということ。
最初の1年はよかった。だが2年目になると「試用期間終了」とばかりにすべてがガラリと変わり、それまで理想と疑わなかった幸福感が苦痛に変わった。
結局、息子が生まれて半年、私は実家に長居した。だがいよいよ、年明け前に「帰ってこい」というお達しに、仕方なく嫁ぎ先に戻った。それは真綿のようなあたたかな場所から、暗く冷たい地下に放り込まれたような天地の差があった。
その頃から私は「遺言」を書くようになった。
特に目立ったいじめを受けたわけではない。ただ嫁ぎ先では居間で寛ぐとか、食事を囲んで団らんとかいうあたたかな会話がまったくなかった。
嫁ぎ先は「新しい家庭」というより「無償の職場」という感覚だった。それは旅先で逗留する宿屋のような、むしろ旅費を稼いでヒッチハイクをするような、いつかどこかに「帰る」通過点というような印象がいつまでも取れなかった。
当然居心地は悪い。そんな環境に安心感は生まれない。いつもびくびくと、家族という名の他人の顔色を窺いながら過ごす日々。そんな中で穏やかに子育てなどできるはずもなく、頭の中は常に「子どもを取られまい」とする妙なざわつきの中にいた。
とにかく嫁ぎ先との縁を切りたかった。だが実の父親がそこに存在する以上、私の遺言通りに事が運ぶかは解らない。それでも私は、嫁ぎ先で子どもを育てその家の人間になっていく様を見ていたくなかった。
当時、離婚は考えていなかった。考えていなかったというより、そうすることはまるで「重罪」のように、逃げられないもの…と思っていたのだ。
あの頃の自分がどんな状況かということは問題ではなく、遺言…を残そうと考えるほど思いつめていたのだとしたら、あるいは最初から自分はなくともあたたかな場所にあればいいと、子どもの行く末しか考えていなかったのかもしれない。それはまるで捕虜であったかのような心境だったのだろう。
何度書き直したか解らない。名前を書き、日付を入れ、綺麗に清書できたなら、きっと願いが叶う、いつかこの環境から抜け出せる…写経のような気持だった。今思えば罰当たりなことをしたと思う。だがそれが現実だったのだ。
現在「遺言」は書いていない。
『渡る世間は鬼ばかり』のような環境からは抜け出せた。ただ、心配事がなくなったわけではない。またいつか書くようなことがあるだろうか、それも今は解らない。だが、ふたたび、子どもたちに危険が及ぶようなことになればまた書くこともあるかもしれない。そんなことはない方がいい。