1ダースの恋 Vol.3
「佐藤さん、このまま帰ります?」
「あぁ、でもこれからよるとこあるから」
「女すか?」
「そんな色っぽいところじゃないよ」
「どうだか」
「言ってろ…」
どうせお前だって直帰だろ…そんなことを毒づきながら席を立つ。
「っと、これ持ってかないと…」
そのまま帰ろうとして山積みのデスクの一番上に置かれた茶封筒をすくい上げる。
「お先~」
「ねぇ佐藤さん、いい加減デスク片付けて」
すれ違いざまに女子社員に小言を貰いながら、茶封筒を掲げさも自分は「仕事です」と言った様子で生返事を返した。
思いのほか仕事は楽だったのに対し、気分は落ち込んでいた。こんなときの律はいつもジャズ喫茶に足を向けた。
「マスターいつものね」
そう言ってなれた風にいつもカウンターの端に席を落ち着けた。
「・・・・。あ~ちょっとだけブランデー入れて」
「なんかあったって顔だな」
チャップリンのようなちょび髭のマスターはその一言で今日の律の顔色を窺う。
「そういうわけじゃ…。あ~なんだよ、そうだよ」
なにかなければここに来ないわけじゃない。だが、落ち込んでいるのは事実だった。
〈この子、大学一緒じゃなかった?〉
昼間、同僚に魅せられた音楽雑誌。
見開きのページに見知った顔が載っていた・・・・。
*** *** ***
「…ピアノ専攻の子、クラス割り振ります」
構内で行われる秋の合唱コンクールは、クラスにピアノが弾けるものがいない場合、音楽科の生徒が駆り出されることになっていた。そこで出会ったのがヴァイオリン専攻の彼女だった。
「1年生は先にテストしますので音楽室に移動します」
同級生で一つ年上の岩本水香は高校に入学する前に留学していたとかで、その非凡な才能ゆえに、世界の扉が開かれているような別世界の存在だった。
「岩本さん、あなたは…?」
「今年はピアノ専攻が少ないから、弾ける者は全員。と言われたので」
「そう、じゃぁ弾いてみて」
彼女のピアノは堂々としていてそこにいたピアノ専攻の生徒のだれよりも力強く、そして正確だった。
「佐藤律くん? あなた、左手の小指に怪我してるでしょ。それともあれは癖なの?」
それなりにコンクールを渡り歩いてきた律には、ピアノに関してそれなりの自信があった。だが、去り際のそのひとことで、凡人とそうでない者との違いを見せつけられた気がした。
「でも、あなたのピアノ、嫌いじゃないわ。つき合って」
「え…と」
突然の言葉に舞い上がっていた律は、その「つき合って」という言葉が「練習につき合え」という意味だと理解する前に恋に落ちた。
それからの放課後は毎日2時間、彼女のために伴奏を弾いた。
「潰されるわよ、彼女に」
外野の声など耳に入らないほど律は水香に夢中だった。自分の練習のためにもなると思っていたそれが、自分の首を絞めることになるとは思わず、それでも律は辞めなかった。だがある日、
「もういいわ。今日であなたとはおしまい」
なにが気に入らなかったのか、2年生の終わりに彼女に突然引導を渡された。
「お互いステップアップしましょ」
意味が解らなかった。それからお互い、音大の受験のためすれ違うようになり、一日2時間の恋人はあっけなく終わってしまった。
運よく音大に進学できたものの、いまいち方向性の見いだせない律は再び水香と出会った。音楽的に抜きんでていた彼女ではあったが、相変わらずひとりきりで構内をナイフのように切って歩いているようだった。
「リッツ…」
「おぁ…。なんでこんなとこにいんの?もっといい大学(とこ)、行けたんじゃないの?」
「そう?でもここも悪くないわよ。わたしのための個室とありとあらゆるもてなしを受けてるから」
「あぁ、そういう?」
有名人を輩出したい意向なのか、大学も考えてのことらしい。
「見せてあげる。久しぶりにやらない?」
言われるまま、ありとあらゆるもてなしのひとつである水香の練習室に向かった。
一通り音合わせをし、あの頃一緒に練習していた曲を流した。突然背を向け「今日限りにしよう」と言われたあの日以来、2年近くのブランクがあったが、それほど悪い仕上がりでもなかった。はずだった…
「ふぅ…」
だが水香にとってはそうではなかったらしい。
「変わらないわね、リッツ」
「なにが?」
「わかってない。というより、わたしのせいなのかしら…?」
「だからなに?」
「とてもやり易い」
「なら…」
「わかってない。だからダメなの。あなた、わたしに合わせすぎるのよ。これじゃふたりともこれ以上は望めない。まるで変ってないわ、あなた大丈夫なの?」
「オレの腕が悪いってのか」
「そうじゃない…」
思いのほかがっかりした様子の水香に、律はますます苛立ちを覚えた。
〈潰されるわよ〉
言われた意味がその時になってやっとわかった気がした。
高校当時の律は水香に合わせるのが精一杯だった。そうしてようやっと合わせられるようになったと思った頃突き放された。ようやっと追いついたと思っていた律には理解できなかったそれは、水香のやり易いピアノしか弾けなくなったという結果だった。
〈お互いステップアップしましょう〉
あの頃は自分の技術が未熟なゆえに見捨てられたと思っていた。だから律なりに必死に追いつこうとした。だが、それこそがむしろ無駄な作業だったと思い知らされた瞬間だった。
「なんだよ、それ。だいたいなんだよ、このピアノ。音がまるでダメなんだよ、ちゃんと調律すれば…!」
「そうよ、このピアノはわたしがこの部屋をあてがわれた時から音を出してない。当然調律もあってない。でもあなたはそのピアノでさえわたしに添わせることが出来た…。この意味が解る? わたしは今あえて高校の時の音を出した。だからついてこれた。でも今の実力がそれなら、もうわたしとはやれない」
「な…」
「もっと上を目指せると思っていたのに。リッツ、わたしたちはこれまでね」
そう言って水香は律の胸に手を当て、さみしそうな顔を近づけてきた。
水香のやわらかな唇が触れ、だが触れると同時、冷たく離れていった。
「リッツ…?彼女を大事にね」
「は…?なんで?」
水香とはそれきりだった。
*** *** ***
〈この子、大学一緒じゃなかった?〉
雑誌の中の水香はきらびやかなドレスをまとい、見たこともない笑顔を讃えていた。インタビュー記事の中「ファーストキスの思い出は?」という質問に、
〈大学の時、練習室で、初恋の相手と…〉
しらじらしいと思った。
確かにあの時、律には別につき合っている彼女がいた。あれがファーストキスだと言っておきながら、水香は「彼女を大事にね」と捨て台詞を吐いて行ったのだ。
完敗だ。追いつけるどころか、同じ土俵に立ててさえいなかったのだ。
「女ってわかんねぇ」
ブランデー入りのコーヒーを口にしながら、律は独り言ちた。
ほら、こじらせるのは無理もないだろう?
実際その後も2人程、仲良くなれた子たちはいた。
1人目は半田桐子。外資系企業に勤めるバリキャリで確か31歳のお姉さん系だったなぁ。髪をいつも綺麗に結っていて仕事に対して熱心に打ち込む姿に惚れたけど、一方で自己中な所もあって、少し困惑していた部分もあった。
結局、彼女が海外赴任を決めて「当然、私についてくるわよね?」なんて言われて、「僕は君の犬じゃない。」って別れてしまったけな。
彼女の凛とした佇まいがどこか水香と似ていて、その雰囲気に惹かれただけだったのかも知れない。
2人目は最上のり。出版社勤務の25歳で幼少期からアニメ好きな子だった。
可愛らしい容姿の子で、運命的な出会いを求めていたんだよな。
俺のハンカチ戦法で瞳を輝かせてくれたから、俺も気をよくしてそのまま付き合う流れになったんだ。
これまでと違い、自分の方がリードしないといけないタイプだったから、少し新鮮で彼女の理想に近づけようと努力もしたけど、最終的には疲れてしまって別れたんだよな。
それにしても俺の心には、まだ水香がいる気がするんだよなぁ。
そろそろ吹っ切って、次のステージに行かなきゃな。
お気に入りの本をポケットにしまい、俺はジャズカフェを後にした。
外は真っ暗で、はぁーと吹きかけた息が白くなっていた。
その白さに俺は、あの子、亜美の事を想っていた。
あの子は今、どこで何をしているのだろうか?
ちゃんと温かい所にいるのだろうか?
そんな心配をしている自分に気づき一人笑いながらも、
亜美への想いが強まっている感覚に 心が躍っていた。