
生きる大河の中で
生まれてから、51歳になった現在までを振り返る。
良しにつけ、悪しきにつけ、全てが必然であったと思える。
どのような人間関係からも、必ず学ぶものはある。
それを考えると、人生の何もかもが、何の無駄もなかったと、ただただ感謝する今である。
恨まず、憎まず、羨まず。
人生の、雄大な流れに任せ、全てを受容していくこと。
どんな嫌なことがあっても、どんな どん底を見ても、それがあったからこその、「成長」というものがある。
それを考えると、全ての出会いが宝で、全ての経験は宝である。
泥水をすするごとに、受容するキャパシティは大きくなっていく。
幸、不幸、そんなものはどうでもいいのだ。
人生というものに、確かに「意味」と「意義」があるとすれば、あらゆる物事、すべての人間関係、それらを受容していく、「慈悲」と「慈愛」に尽きるのではないだろうか。
「泣く時は泣くがよろし。笑う時は笑うがよろし」
良寛の言葉である。
人生というものは、それで良いのではないだろうか。
幸せであること、不幸せであること。
それを誰かと比較することこそ、一番の不幸である。
ただ心から、泣く時は 泣き、ただ心から、笑う時 笑う。
生きることは、もっと素朴で良いのではないだろうか。
自分の不出来 を許し、他人の不出来を許していくこと。
そもそも、自分は何様でもないわけで、そう思うと、自ずと、とても大切なものが見えてくるような気がする。
どんなに ささやかなものでも、「人の心」に触れるとき、ありがたいと思える事があるのならば、それは最も、かけがえのない、宝ではないだろうか。
人は自分一人で生きているわけではない。
よくよく目を凝らすと、小さな小さな「誰かの 善意」によって、1日いちにち、生かされていることが分かる。
生きていること。
それは こういった喜びに気づくこと、その感動だけで、充分ではないだろうか。
幸、不幸、その定義は、自分の欲得であるかも知れないと思う。
だからそんなものよりも、もっと ささやかでいいのだ。
「人」と「自分」との、ごくごくささやかな、心が触れるときの、安らぎや安堵、楽しさ。
そういった小さな感動が、「人」を生かし、「自分」を生かす。
これほど尊くて、かけがえのないものはない。
幸せ、というならば。
そのごくごく微細な感動を、見逃さず受け取る、己の謙虚さに、尽きるのではないだろうかと、この歳になって思う。
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