荷物は少しずつ減って
「千と千尋の神隠し」に出てくる「カオナシ」が、電車に乗っている姿をよく考える。
なんとなく、気持ちがわかる。
小さな 懺悔と小さな不安と、もう誰でもなくなった安心。
身を預けるような照れくさい 甘えと、行き先に見える本当に小さな灯火の数だけ、自分がどんどん小さくなって、何か 清らかな自然 みたいなものに消え入っていく、全ての拘りからの解放と安寧。
無に帰すということ。
その通り道を、電車に乗って揺られて、とことこ ゆっくり進んでいく。
カオナシは、散々 暴れた挙句、多分そういう心地になって、あの電車にとことこ 揺られ、静かに ちんまりと座って、灯火の数を数え、そのたびに、少しずつ安心していくのではないかな。
自分はもういいのだと。
ちょうど私の年齢が今五十歳で、統合失調症の状態がだいたいこんな具合で続いていくというのが分かっていて、そんな中 ゆっくりとした、ゆっくりとしか進めない日常があって、もう何も無理が効かなくなった。
友達がだんだん、ひとりひとり、ひとつ歳をとっていく。
私も年末には歳をとる。
静かにうつむき加減で、ちょっと猫背で、ちょこんと電車の椅子に座り、ただ揺られて行くカオナシ。
その気持ちは、今の自分の気持ちのような、なんだか分かるような分からないような、もしかしたら近いんじゃないかなというような、そんなことをなんとなく考える。
歳をとるごとに、自分が要らなくなる。
自分の中から要らないものはどんどんなくなっていく。
荷物がちょっとになって、どんどん ちょっとになって、最後は リュックサックまで要らなくなるくらい。
自分は誰でもなく、どんどん 誰でもなくなっていって、最後は土になる。
いろんな拘りが薄れていく。
拘りが薄れていくと、どんどん 自由になっていく。
若い頃のように、自分は自分であると、一生懸命構えなくていいのだ。
自分なんてそんなものだ。
それよりもっと世界は広くて、愉快なことは 散らばっていて、思いを馳せるだけで、空想は自由に 広がり、宇宙みたいにどんどん広いところまで空想は広がり、「自分」なんか、ほんの小さな塵芥である。
手の隙間からポロポロ落ちては土に紛れてしまう砂のようである。
仕事で自分のことを書く。
書いたり描いたりする。
その度に自分は、「自分」という「その昔 思い悩んだ人」を消費し、切り捨てていき、埋葬し、忘却し、自分の体から垢みたいにどんどん 剥がしていく。
ああ その時 自分はそんなこともあったんだ。
自分を描写するということは、常に過去を描写することである。
書いたそばから、描いたそばから、持っている 「荷物」がどんどん少なくなっていく。
懺悔も不安も構えることも、一生懸命「自分」であろうとすることも、五十歳の自分から見ると、どれを取ったって大仰な悩みでも事件でもないんだよ、子供だったなぁと、描写するたびにそう思う。
雲の隙間に太陽があって、時折雲が動いて射してくる光の筋は、ハッとするぐらい心を動かす。
カーテンを閉めようと、そのとき空が鮮やかなピンク色で、部屋を真っ暗にしたまま、釘付けになって動けなくなる。
朝起きたとき、カーテンの隙間から射す お日様が、命をくれるようで、とてもありがたく思う。
毎日、ふとした景色に心を掴まれる。
それは生きてよかったなぁとか、言葉にするほど難しいものじゃなくて、瞬間 、ズドンと心を射抜かれて、洗濯機の中に放り込まれるような、純粋な感動である。
ポカーンと、動けなくなって、ただただつつまれる感動である。
1年生きるたびに、そういう瞬間が多くなってきて、世の中がこんなに綺麗だということが、無性にたくさん見えてくる。
そこには「自分」なんていない。
本当に自分なんてぶっ飛んじゃうんだ。