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父の店じまい

先週、父の田舎の家に梅もぎに行った。

父は相変わらず淡々と面白く、一緒に行ったムラタさんも失笑する場面が何度かあった。

私は父をよく観察した。
(ムラタさんはもっとよく父を観察していた)

父はこの2年くらいで、軽くなってきた。枯れてきたのだ。
砂漠で風に転がる植物のようになっていく。

去年、父が母と二人で日生劇場へ行った後、
父がキッパリと
「もう東京には行けない。いやあ、皆歩くのが早いんだ」
と言った。

父は足の裏の感覚を感じにくくなり、そっそっと動物のように進む。
確認しないと気がすまない性格の上、東京の地下鉄のサイン表示の複雑さ。

観劇帰りが夕方に重なり、スマホを見ながら高速で歩くサラリーマン土石流の中で、いちいち立ち止まっては人差し指で方向表示を確認している父が露骨に邪魔にされている様子が目に浮かんだ。サラリーマンたちを憎く思った。

父の耳は少しずつ聞こえにくくなり、緑内症で視野は狭まり、話を聞くところピンホールの穴の中からコーヒー色のレンズをはめられて世界を見ているようだ。葉の間に実るモロッコ隠元など、緑の中の緑を判別できず、触覚で取っている。何気なく置いた農具がすぐ見あたらなくなる。

そんな時も「見えないんだよ」「見つからなくてね」と淡々と事実を伝え、普通に生活している。身体の縮小に感情を付加しないのだ。

声も細く、枯れてきた。話す内容は同じで、面白い。

脳については言うに及ばず、数字の間違いや動作の記憶が曖昧にしか残っていないことがあり、話していて驚くことがある。

ちょっとした送金トラブルがあったとき、メールで
「失敗ばかりで憂鬱になります」
と送られてきた。
「私もどうやら更年期らしく、身体の扱いがうまくいかないことがあります。今お父さんの体では、脳の短期記憶より優先させることがあるのだと思います」
と返信した。

もともと数学の教師になろうとしていたくらい数字に強く、確認ミスを許さない緻密な性格の父が、適当でぼやっとした人間のような結果を出してしまうのは、歯痒いだろうなと思った。

目、耳、脳、足の裏。
父の体の先端の細かいところから、身体が少しずつ店じまいをしているのがわかる。
それは父の家のありようと一緒で、細かいところからすこしずつ蓄積された汚れがたまり、それが使えなくなってくるのと同じだ。

魂は居酒屋でご飯を食べているのに、体のほうは広い室内の照明を間引きし、まわりの椅子は机に上げられはじめて、蛍の光がかかっている、そんな感じ。

父は畑仕事山仕事のための体づくりにスポーツクラブへ行き、毎日ストレッチをし、目薬をさし、お菓子を食べず、畑のものと玄米を食べて、これ以上健康度を高める生活はもう無いと思う。

この先何年生きるのだろう。父は2,3年だと言う。
でも照明が半分の、蛍の光が流れるお店で、残りのお酒を5年10年かけて飲み干すタイプもいるだろう。先のことはわからない。

死神のイメージはよろしくないけど、父にはもうリングの中で投げられたタオルというか、そんな「そろそろ」なものに包まれ出しているのを感じる。死装束の羽衣みたいだ。それはそれで美しく、そこに不吉な感じはしない。

猫や犬が最後まで淡々と老いを受け止め、卑屈にならず最後の一呼吸を終えるように、父も老いに感情を紐付けないまま、
「潮が引いたから岩が見え出した」くらいの様子で仙人のように生きている。

最近私の知りうる人間の中で一番面白く、観察を続けたい人が父だ。彼の生命エネルギーが増殖を手放してから、タイヤの回転とわずかな傾斜だけであとどのくらい、どのように生きていくのか、父の老いは惨めさとは無縁だ。真性にかっこいい。父を見て生きたいし、見届けたいと思うのです。

母は骨太で明るく、まだまだハリがあって、元気。
母のほうが家系的にも頑丈で、私は母寄りな体質です。

おやすみなさい。

(2021.06.24)

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