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~随筆~ 明治の女・二人

 まずマセおばさんのことから書こう。マセは明治のごく初期生まれの女性としてはかなり珍しい一生をたどった人であると思われる。そのマセに私が興味を持ったのは老齢になってからで、マセについてよく知っていたであろう祖母や伯母たちも亡くなり、私が知る向上心の強い勇敢なマセについての知識はわずかでしかなかった。わが一族の傑出したこの女性のことを書き記して後の者にも知らせてやりたいという思いを諦めかけていた頃、思いがけず偶然に、マセの結婚相手であった加藤の係累の家からマセの簡単な自筆、墨書の履歴書が見つかって、それが回り回って私の手元に来た。神の助けであろうか。それによって、三十代半ばくらいまでのマセの経歴がほぼわかる。

 福井(結婚後は加藤)マセは明治6(1873)年12月26日生まれ、柳川の郊外の田舎で育った。福井家は江戸時代正徳5(1715)年頃から立花家に医者として仕えていた。ちなみにその医者としての初代は福井玄禎(げんてい)であったようで、玄禎は当時名だたる学者だった安東省菴(あんどうせいあん、元和8・1622年生~元禄14・1701年没)に師事していたらしいが、医者になるために京都行に際して、省菴から長文の餞の書をいただき、その文書が表装されて今現在まで残されている。その福井家の家系は不完全な家系記でわかる。明治になって立花家と縁が切れた福井家は城から3キロほど離れた大和村大字豊原(現在大和町豊原)に両親、男兄弟5人の女1人の8人で住んだ。マセは6歳で四十丁小学校に入学し、13歳の明治20(1887)年9月に長崎の活水女学校(キリスト教メソジスト派)に入学している。当時は柳川にもその近隣にも女学校はまだなかった。とはいえ、柳川から長崎は鉄道もない当時としては遠い所であった。その長崎の活水女学校に何を目指して行ったのであろうか。そもそも柳川の田舎で、どのようにして活水女学校の存在を知ったのであろうか。考えられることは2歳年上の兄安太郎が医者になるために長崎の医学校に入っていたので、その兄からの情報であったかもしれない。しかし、その兄が積極的に入学することを勧めたかはわからない。

 ところが入学直後、医者である父春悦(しゅんえつ)は病気で急死。兄安太郎は家計を支えるため医学校を退学し、小学校の教員となり、その給料とわずかの田畑で一家7人は食べていかなくてはならなかった。しかし、マセは退学せず学業を続けた。明治27(1894)年6月20歳で中学科(履歴書による)を終え、さらにもう一年補習科、明治28(1895)年7月に終えている。その8年間どのような生活であったかはわからない。マセが学業を続けたのはまずは本人の強い意志があったからであろう。しかし家長の安太郎の許可や応援がなくては続けられなかったであろう。マセはどのような目的を抱いて活水女学校に入学したのだろう。明治の新しい時代の波は田舎の貧しい人々にも向学心に燃える刺激があったのだろうか。鉄道もそこにはまだない時代、柳川から長崎に行くには有明海を船で島原半島をまわり、外海に出るという海路であったであろう。マセは長崎に行ったまま、8年間一度も帰省しなかったであろう。というのも当時の福井家は極貧というような状態であっただろう。マセの家ではわずかの田畑を切り売りしてマセの学費を作っていたらしい。女は当時は尋常小学校を出たら、農作業の手伝いや女中奉公に行ってそしてまもなく嫁になるのが普通だった。しかし、マセは活水女学校修了後、西洋婦人の通訳を半年くらいやっていた。

 明治29(1896)年4月マセは、東京の明治女学校へ入学している。どのような目的があったのか。活水女学校を卒業しただけでは教員の資格を取得できなかったのではなかろうか。明治女学校はキリスト教主義の女学校で、特定の派閥に関わらないキリスト教系の学校であった。明治女学校高等科を2年間で卒業し(『明治女学校の研究』によると明治30(1897)年4月卒業、1年で卒業?)、明治31(1898)年9月にはるかに遠い岩手県の私立盛岡女学校(履歴書による)に教員として採用されている。その女学校にしばらく勤めていたらしいが、その後仙台の尚絅(しょうけい)女学校に移っている。それがいつかはわからないが、尚絅女学校の方は尚絅大学の非常勤の教員をしていたいとこが勤めていた時、古い教職員名簿に「福井マセ 数学 英語」の教員として記載されていたと話してくれた。

 マセは東北地方に3年教員として勤めていた。明治33(1900)年柳川に山門郡立柳河高等女学校が創立されたので、マセは地元に戻り、翌明治34(1901)年助教諭心得となった。6年ほど勤めて、明治40(1907)年4月に33歳、休職し、渡米しようとした。しかし、渡航申請の第1回目はマセが目の病気トラホームにかかっていてかなわなかった。マセは自分がアメリカへ行くことの許可がでないなら、兄である安太郎にアメリカに行ってほしいと言っていたそうである。これは祖母から聞いたマセについてのわずか二つの事柄である。なぜマセは渡米をそれほど切望したのか。多分2回目の申請で渡航ができたのであろう。その年の12月27日、アメリカのシアトルに上陸したことが入国記録からわかる。

福井マセがアメリカに入国した記録

 考えてみるとマセはキリスト教メソジスト派のミッションスクールの活水女学校を卒業し、次に明治女学校というキリスト教系の学校に入り、更にバプテスト派の尚絅女学校に勤めた。三校ともキリスト教の学校である。マセはどの段階かで、キリスト教に入信していたのではないか。父親が亡くなったのは活水女学校に入学直後、その時退学しなかったのは、すでに信仰心を持っていたからとも考えられるのではないか。活水女学校に入学して早い時期に洗礼を受けたのではなかろうか。だから貧しい家族をかえりみず卒業まで在学し続けたのではないか。そして、盛岡女学校や仙台の尚絅女学校、柳河高等女学校に勤めたのは渡航費用と学費を稼ぐ期間であったのか、明治時代何かを学ぶためには自費で渡米するしかなかった。マセはどのような決意で渡米したのか。その強い決意と実行力はどこから出ていたのか。マセの心の奥底にしっかり根付いていた思いは何であったのか。あまりない手がかりから考えてみるに、マセの13歳から21歳まで在学した活水女学校での影響が非常に強かったのではなかろうか。そこで心を鷲掴みにされたのがキリスト教であったのではないか。家族の困窮をかえりみず、さらに東京の明治女学校へ入学し、教員資格を得て仙台の尚絅女学校へ勤めた。キリスト教ですべてつながっている。いったん柳河高等女学校で勤務したが、やはりキリスト教への思いは断ち切れなかったのか、キリスト教が盛んなアメリカをめざすことになったのだろう。

 アメリカでのことはあまりわからない。どこかの大学を卒業している。マントを着て、帽子をかぶった卒業写真と思われるものを加藤の方のいとこが見たと言っていたからである。どこかの大学かそれに類する学校で学んだのかもしれない。当時のアメリカでは女性は何かに所属していないと入国できなかった時代で、マセの入国記録の区分が「Student」と書かれていた。マセはどこかの学校に入学することが許可されていたのであろう。その学校に入学したはずである。アメリカの滞在先、身元引受人の欄に「M.Yamaguchi」と書かれている。その人は福岡県・久留米の明善中学校出身の山口三之助(みのすけ)、兄安太郎の同級生だと思われる。明治42(1909)年4月4日のSyracuse Herald(ニューヨークの地方新聞)によるとマセを入れて5人の女性の写真が載っている。これはFolts mission institute(メソジストの家庭、外国のキリスト教伝道活動のための若い女性の学校)がアジア女性向け講座を作り、5人はヘレン・グルードさんの家に招待され、最終講義として1週間くらい滞在していたことが記載されている。その5人のうち、すでに大学に入学している人もいる、マセはFoltsの学校でkindergarten workを履修中とあるので、この記事にある講座は短期間であったのであろう。

 次にわかるのはマセの結婚である。婚姻日が明治44(1911)年10月11日と、カナダのバンクーバーの役所に結婚届が出されている。バンクーバーで、ホイツテングトン博士(秋真の東洋英和学校時代の恩師)と金澤敬治郎牧師立合いのもと結婚した。マセの相手は加藤秋真(あきざね)48歳、マセは37歳。二人がどのような経緯で結婚にまで辿りついたのかはわからないが、マセが結婚する相手に出会ったことはほんとうによかった。嬉しくなる。しかも秋真は立派な人物であったらしい。秋真は富山県出身で、東京大学製薬を卒業後、東洋英和学校神学部入学、日本で15、6年牧師の仕事をして、明治35(1902)年アメリカに渡り、シカゴ大学神学部に38歳で入学、明治41(1908)年44歳で卒業、その年の9月カナダのブリティッシュ・コロンビア州の漁村のスティブストン教会に派遣された。そこに2年ぐらいいて、明治44(1911)年カナダ・ヴィクトリア教会に異動させられた。この頃マセと結婚している。この年11月にマセがニューヨークからカナダへ入国した記録がある。その後おそらくマセは秋真と行動を共にしたであろう。結婚後のマセの動向はわからない。マセは大学に入学して、卒業していたであろう。その後、マセは牧師の妻の立場で仕事をしていたのではないか。ついで、秋真はアメリカのスポーケン教会、タコマ教会にうつったので、マセも共に移動していたであろう。田舎のタコマ美以教会から大正6(1917)年ニューヨークの教会(W.104th St.Bet, Amsterdam and Columbus New York City)に赴任、これはニューヨークの教会の中心人物だった山口三之助の活動によるものだった。大正9(1920)年ニューヨークの日本人会の理事に山口三之助、加藤秋真の名前がある。秋真とマセはタコマから10歳くらいの女の子をニューヨークに連れてきて、3~4年くらい共に暮らしていたが、日本に帰国する以前に亡くなったそうである。

佐々木敏二『山本宣治』汐文社1974年

 ところでマセであるが多分どこかの大学を卒業した後、正式の牧師の資格が取れたかどうかわからないが、キリスト教の布教活動をしていたのではなかろうか。私の祖母から聞いたもう一つの話がある。マセが日本のことを説明するのに必要だから女の子の着物を送ってほしいとの手紙が来たので送ったということだった。

 ニューヨークの教会に7年くらい牧師を勤めた秋真とマセが関東大震災の翌年の大正13(1924)年秋に日本に帰国した。大災害に遭遇した東京の人々を助けるためであったのだろう。『柳河新報第720号』に「加藤ませ子女史帰朝土産話」を11月18日柳河婦人会の主催で柳河高等女学校にてマセが話したことが記事になっている。秋真は大正15(1926)年から昭和6(1931)年まで東京本郷の中央会堂で説教の奉仕をしている。青山学院の講師、私塾(常磐塾)を開いていたという話が伝わっている。昭和6(1931)年の『基督教年鑑』によると、「現住地、東京市外渋谷町常磐松2」に秋真、マセと共に住んでいたようだ。帰国後のマセの行動はほとんどわからない。常磐塾でマセも一緒に教えていたかもしれない。ミキモトパールの関係者に英語を教えたということが伝わっている。だが、若い頃からのキリスト教への情熱は失われることはなかっただろうから布教活動もしていたと思った。というのもマセの二人の姪がキリスト教に入信しているのも直接間接的にマセの教えや感化によると思われるからである。その一人が兄安太郎の長女千代(結婚して加藤)は秋真の兄加藤萬治(かずはる、東京大学医学部中退後、牧師となる)の長男敬愛(のりよし)と大正14(1925)年5月に結婚しているが、これもマセの仲立ちであろう。ただし、萬治はフレンド派の熱心な牧師であって、メソジスト派の秋真・マセと派が異なる。さらに安太郎の次女ミネ(東京女子医学専門学校卒)は医者となって、東京で仕事をしていたと思われるが、マセの最期のころの世話をしている。そのミネはキリスト教信者であった。しかし、ミネはバプテスト派であったのは、夫の古賀武夫(たけお)の影響で移ったからなのか。マセは昭和10(1935)年2月28日、61歳、乳ガンで亡くなった。葬儀は青山学院で行われた。


 もう一人の明治の女として書いておきたい人は私の父方の祖母島添(結婚して福井)トモで、明治11(1878)年11月18日生まれ。私は内孫であったので、結婚して家をでるまでの25年間祖母トモと一緒に暮らしたのであるが、トモの口数が少なかったので、私がトモの生い立ちや何かについて興味がなかったこともあって、トモの結婚以前についてはほとんどわからない。だがここに書きとめて置きたいことはトモもマセと同じように柳川から長崎のミッションスクールの女学校を卒業していることである。トモの家があったところは少し町らしいところではなかったかと思われる。トモには兄島添酉があり、長崎の医学校を卒業し、北九州の八幡で病院を開業していたが、戦災で焼けてしまった。トモが長崎の女学校に行こうと思い立ったのは、この兄酉からの情報だったのだろうか。明治33(1900)年まで柳川に高等女学校はなかったので、尋常小学校の6年(明治19(1886)年の学校令発布、尋常小学校4年、高等小学校4年になる過渡期)を終えて、何か漠然ともっと勉強がしたいと思った女性は長崎に行くしかなかった。しかしその頃そのような思いを抱く女性は少なかっただろう。トモは長崎の梅香崎(うめがさき)女学校(プロテスタント派、明治23(1890)年開校、現在下関にある梅光女学院の前身)に入学し、本科を明治27年(1894)年6月、高等科を明治29(1896)年4月、17歳で卒業した(『梅光女学院史』による)。これはトモの口から聞いたことであるが、学費がなかったので、この学校の外人の先生のメイドをしていたという。そのような制度があったのだろう。そのようにしてでも勉学をしたい意欲があったということであろう。そのようにして英語が身についていたのであろう。トモの娘のミネが女医となった。福岡県の女医第1号のミネや京都大学法学部を出た亘(私の父)、その人たちに英語を教えることもあったと聞いている。

 トモの女学生時代の思い出の品として二つ、かなり晩年まで持っていた。一つは陶器の人形である。20センチくらいで頭も手も陶器で、アメリカの開拓時代の映画に見るような茶色に黄色の縞模様の入ったセミロングの日常着というような服を着た令嬢といったような人形であった。その人形は私がもらっていたが、いつの間にか見えなくなっていた。もう一つトモが大事にしていた讃美歌集で、黒表紙のA5版ぐらいのかなり大きいもので、手箱に入れていたはずであるが、これもいつの間にか見えなくなっていて、トモは残念がっていた。讃美歌を歌うことなどはなかったが、老衰で命が尽きかけたころ、何人かがトモの床まわりに集って、讃美歌♪主よ、みもとに近づかん…♪の歌をうたったところトモが口を動かしていた。少女のころの思い出が甦ったのであろう。皆感動した。

 トモについてもう一つの思い出は「熊本バンド」である。それを聞いたのは私が小学校高学年のころだったろうか。「バンド」とは昔はベルトのことをそう言っていたので、何か変わったものかと思って記憶に残っていたのか。それが近年テレビで何となく聞いていたら急に「熊本バンド」という言葉が出てきて驚いた(熊本バンドとは明治9(1876)年にキリスト教プロテスタントの熊本英学校の30数人が、キリスト教を日本に広めようと盟約した人々を中心とする集団の名前である)。トモは熊本の親戚の家にしばらく滞在していたと言っていたので、梅香崎女学校を出てから結婚前くらいかの間であろう。トモは熊本に居たころ、熊本バンドの人たちの話を聞くことがあったのかもしれない。結婚してからは7人の子育て、主婦、農作業に明け暮れていたであろうトモと熊本バンドのつながりがあるとは考えられない。しかし、トモの口から「熊本バンド」という言葉を聞いたのはトモの晩年にちかいころでもある。トモの頭の中に「熊本バンド」という言葉が残っていたということはどういうことであったろうか。もっともっとたくさん祖母トモの話を聞いておけばよかった。トモは昭和42(1967)年に亡くなった。


 明治時代になって男子には藩校から続く中学校や新しい中学校が少しずつ出来ていったが、女子にはまだ小学校以後の学ぶ場はなかった。しかし、文明開化の波は田舎にも何となく伝わってきて、“女●田舎●貧困”の三大リスクを背負った女子の中にも学びたい人たちが少しずつ出てきていたのであろう。マセとトモはその時代の女子の典型の例としてみることができるのではなかろうか。

 ここで、大きな謎が残っている。大正15(1926)年の『基督教年鑑』によると、福井安太郎が「基督者教師」、キリスト教信者として記載されている。昭和18(1943)年、私の8歳の時に祖父安太郎は亡くなり、一つ屋根の下でずっと一緒に暮らしたので、祖父のことはかなり記憶にある。しかし、祖父がキリスト教信者であったという兆候は全くなかった。生活の中にも、あるいは持っている書籍の中にもそれらしきものはなかった。しかし、考えてみれば、安太郎がキリスト教信者であったということは納得できないこともない。マセがキリスト教(メソジスト派)の道を進んだ歩み、あるいは妻としたトモがプロテスタントのミッションスクールを出ていること、そして、長女千代を牧師(フレンド派)の息子敬愛と結婚させていること、次女ミネがキリスト教信者古賀武夫(バプテスト派)と結婚していること、これらは家長の権限が強かった時代であるから、安太郎の阻止があればこれらの4人の進む道も許されなかったかもしれない。そのようなことを考えると、一概にキリスト教信者ではなかったと断言できない。しかし、キリスト教信者としての雰囲気はどこにもなかった。謎のままで終わろう。

盲目の私が書くにあたって、家族の者の多大の援助をえた。感謝。

2023年6月1日 西丸 妙子


お世話になったところ:国立国会図書館・青山学院資料センター
柳川市立図書館・練馬区立光が丘図書館


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