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感情を自分の言葉で語れない人

友人が亡くなって、そのあとのSNSグループでのコメント欄に、コピペしたかのように同じような言葉が延々と並んでいるのを見て、僕はゾッとする。その理由が少しだけ分かってきたから、この文章を書いている。

「最近の社会は・・・」という物言いは注意深く行うべきだけど、僕は最近僕も含めた人々の感情が劣化していると思っている。ここでいう感情劣化とは、何らかの出来事がやってきたときに、それを表現する言葉が乏しくなること、という意味で使っている。言い換えると、自分の感情を表現する手段として、自分なりの言葉を持てなくなってきているということだ。念の為だけど、ボキャブラリーが豊かであるか貧弱であるかということを話しているわけではない。

重大な出来事が起きたとき、僕たちが感じることは本来多種多様なはずだ。全く同じ感想をもつなんてありえない。そして、その感情は最初はなかなか言葉にならない。それでも自分のボキャブラリーの中で、なんとかして思いを言葉に紡いでいく過程こそが思索であって、そういうことをしてこそ考えが深くなり感情が豊かになっていくと僕は考えている。自分の感情を正しく言葉にしようとすると、僕はいつも言葉に詰まる。なので、誰かに何か重大なことを言われると、まず考え込んでしまう。

だから、本当に心を揺さぶられるようなことに直面してすぐに言葉でそれを表現できる人は、そもそも感動していないのか、よほど賢いのか、テンプレを持って使いまわしているかのどれかではないかと僕は勘ぐっている。苦手なタイプだ。

昔から、誰かが言ってるようなことしか言わない人はいた。ただ、その対象の多くは政治経済などであって、個人的な話題にまで紋切型の定型句がやってくるようになったのは、つい最近のことではないだろうか。

個人的には感情の劣化は良くないことが起きる兆候だと考えている。自分の思想や感情を自分の言葉で表現しない人は、いつも誰かの言葉を借りていく。そういう人は知らぬ間に自分の内なる世界を失っていって、誰かの考えをそのまま教条主義的に受け入れていく。心のしなやかさは消えさり、安直に感動したり、どうでもいいことに腹を立てたりするようになる。そういう人が多い社会は、全体主義に向かいやすい。

本を読んだりメディアを見たりして情報をインプットすることも大切だが、それと同じくらい、自分ひとりで考える時間を取らないと、どんどん感情や思想を他人に明け渡していくようになる。それを避けるためには一人きりの時間が必要だし、僕がほぼ毎日走ったり泳いだりする理由の一つはそういうところにある。

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