勝ち組の驕りがもたらすもの
メリトクラシーとは、身分や人種などではなく、本人の能力によってその人の社会的地位が決まるべきという考え方だ。たいていの先進国では、この考えが社会のあり方についての基本思想になっている。
「能力がある人にこそ重要な役割を担ってもらう、なんて当たり前じゃないか」という人も多いだろう。確かに、社会全体のパフォーマンスを最適化するためには、すべての人が身分社会の軛から外れて、能力を最大限に発揮できるポジションにつくのが望ましい。名家生まれの無能な人が首相や大統領になるのは国民にとっては悲劇である。
ただ、このメリトクラシー×資本主義には二つ落とし穴があって、それが世界中の先進国における排外主義、差別主義、ポピュリズムを巻き起こす要因になっていると僕は思っている。
第一に、現代の資本主義社会では、経営トップや創業社長などの「能力がある人」に極端に富が集中していること。この人たちが、普通に汗水をたらして働いている人たちの何百倍、何万倍もの富を手にしている。そうでなくても、一般人の10倍以上の所得を稼ぐ外資系企業社員なども少なくない。
第二に、現代社会は保有する富の大きさがあたかも人格的な優越までも示唆するかのように設計されている。勝ち組・負け組といったレッテル、ブランド品の売り文句など、社会そのものが、富を作り出すことができる人を讃え、そうでない人たちの人格を貶めるようにつくられている。ソーシャルメディアもこの傾向を加速させているように思う。
メリトクラシー×資本主義の組み合わさった社会は、「優秀」で「能力」と「分別」がある人を傲慢にさせやすい。「頭のいい」話題についてこれない普通の人たちを馬鹿にするし、自分たちが普通の労働者の何倍も価値がある人間なのだと本気で信じるようになる。すべての人間が、人間であるだけで尊厳に値する存在であるという基本的人権の精神はどこかに忘れられてしまったようだ(「頭のいい人」たちは学校で勉強したはずなのに)。
この「勝ち組の傲慢」はとても滑稽で悲しいことだと僕は思っている。なぜなら、生育過程における本質は人間も植物もほとんど変わらないからだ。
どういう種で、どういう土壌で育ち、どういう天気だったのか、すなわち、遺伝、環境、偶然によって僕たちはできている。
例えば僕がたまたまコツコツ地道に努力できるのは、たまたまそういう環境で育ったこと、偶然にも努力が報われてうれしくなる経験があったからだ。そこそこに素直なのも、謝っても自分が崩壊することがないという安心感を与えてくれる親がいて、謝ったら許してくれる大人や友人らにたまたま恵まれたからだ。
今の仕事をしていることだって、これまで経験したことの結果していることで、自分が意思をもって成し遂げていることなんてほとんど存在しない。今となっては、マザーテレサが「自分は神様の鉛筆のようなもの」と言っていたこともよく理解できる。
たまたま大きくなる種で、肥料たっぷりの土壌で、天気にも恵まれて大きく育った木が、貧弱な木に対して「お前ももうちょっとちゃんと努力しろよ」と言ったとしたら、それはとても滑稽なことだと僕たちは思うだろう。
そして、多くの「勝ち組」を自認する人々は同じようなことをしている。
同じような勝ち組の傲慢は今も昔もあったのだけど、それが社会の不安定につながるほどになっていったのは、経済状況が変わったことにも一因があると僕は思っている。
高度経済成長期であれば、自分が社会にとって必要な存在であると確信できる人はとても多かった。国は成長していたし、多くの人が働いてその成長に貢献していた。
だけど、今はそうでない。自動化によってより多くの労働が代替され、社会の成長に「関係ない階級 (irrelevant class)」が増えてきている。往々にして、論理的思考や科学が苦手な人たちだ。人口の大多数がそこに落ち込んだときも、勝ち組の傲慢が続くのであれば、大変なことが起きると思う。
社会的な動物である人間には、蔑まれながら生きることは難しい。何かに拠りどころを探すようになる。1世紀前のそれはナショナリズムだった。今であれば、論理的思考や科学的な思考、それに近いところにあるポリティカル・コレクトネスを壊すこと、になるのだろう。
トランプが分断を決定的にしたわけではなくて、トランプ以前から分断は存在していた。彼はそれを選挙で勝つために利用しただけだ。世界中には同じようにこの分断を利用する政治家、経済人、言論人が出てくるだろう。そういう人は右派にも左派にもいる。
解決策としては、第一に多くの人が誇りを持って働くことができる社会を作ること(言うは易く行うは難しだけど)。そして、人間がどのように気質や能力を獲得していくのかをきちんと伝えていき、勝ち組の驕りが自然と起きないようにしていくことなんだろう。
(マイケル・サンデルのThe Tyranny of Meritは我が意を得たりという感じの本だった。そろそろ日本語版が出るのだろうか。)