美しい国
僕は仕事柄色んな国を旅していて、もう数十カ国を訪問しているのだけど、「一番奇妙な国はどこですか」と聞かれたら、ハピネと答えるだろう。人口200万人程度の都市国家だ。
ハピネの乳幼児死亡率は世界で一番低く、長寿でも知られている。治安も世界でとびきり高い。ハピネ以外の国で携帯電話を落とそうものなら、それを拾った誰かが携帯をネコババすることを覚悟しないといけないけど、ハピネでは必ずといっていいほど、数カ月後に戻ってくる。僕も含め、外国人らはそれをハピネの奇跡と冗談のように呼んでいた。
ハピネの偉業は、衛生意識と公序良俗を基礎とする国民性の結実だった。この国では、乾燥しがちな冬になると風邪もひいていないのに皆がマスクをする。他の国からやってきた人は「何かへんな病気が蔓延しているのか・・・!?」と驚くほどの徹底ぶり。公序良俗意識が高いので、町にはゴミひとつ落ちていない。ゴミをポイ捨てしようものなら、周囲から冷たい視線が投げかけられるものだから、誰もルールを侵さないようになる。
皆がそうやって相手に対して気を遣うので、ルールを守る限り、極めて居心地がいい生活が保障されていた。物価が安いこともあり、暮らしやすい国ランキングで、世界ナンバーワンの地位を何度も獲得していた。
歴史を見たところ、もともとそういう国民性だったわけではない。誰がいつそういう意識を国民に植え付けたのか、旅行者である僕には分からないのだけれども、しかし同国を訪問した2020年はそうなっていた。
サトシはそんなハピネで生まれた。比較的裕福な家庭に育ったものの、親の方針もあり、子どもの頃は保育園と公立の小学校に通い、そこから市立の名門中学・高校を経て難関大学に通っていた。何不自由無い生活で、気の合う友人らと学び遊んでいた。
ただ、サトシは時々、白昼夢を見ているような気分になる。何か自分がとんでもない記憶違いをしている気分になるのだ。まさに谷川俊太郎の「かなしみ」という詩がしっくりくるのだ。
あの青い空の波の音が聞こえるあたりに何かとんでもないおとし物を僕はしてきてしまったらしい透明な過去の駅で遺失物係の前に立ったら僕は余計に悲しくなってしまった
でも、何を忘れたのかすらよく思い出せない。何かしら不快なものだった記憶もあるのだけど、ぼんやりとしか思い出せない。ハピネに暮らしていると、記憶すらも清潔なものだらけになっていく。だからこんなに犯罪が少ないんだろう。
サトシには大学で知り合った恋人がいた。大学一年生の頃に受けていた憲法の授業で、隣の机に座っていたハルカに思い切って声をかけてからもう3年以上になる。
大学生の恋愛ほど楽しいものはない。足りないのはお金だけで(でも、親に借りればいい)、時間は有り余っている。同じ授業に出て、一緒に勉強をして、広いキャンパスを散歩して、終わりの時間を気にせずおしゃべりをする。何の予定も立てずに車だけを借りて旅に出るのも楽しかった。ハピネはそんなに広い国ではないが、きれいな海も、緑にあふれる山もあった。
ぼんやりとではあるけど、サトシはこのまま2人が就職したあとには結婚して家庭を作っていくのだろうなと想像していた。ハルカとならとても穏やかな生活ができることだろう。ハルカもそれを喜んでくれるに違いない。
2020年12月、もう二人は大学4年生で卒業を3ヶ月後に控えていた。二人とも就職も無事に決まっていたので、サトシはクリスマスの準備に思考の8割以上を費やしていた。クリスマスのこのタイミングで、ハルカにプロポーズする方法ばかりを考えていたからだ。信頼できる中高からの友人にも相談し、二人で近くの遊園地であるメリーランドの経営者に一瞬だけ明かりと音を消すお願いと、そこからきっかり30秒後に音楽を流してもらうお願いを取り付けた。流す曲は"Marry You"。もう10年くらい前の曲だけど、結婚のお願いで流す曲はそういうベタなものでいいのだろう。
光と音が消えて30秒の間に言う台詞を全て完璧に覚えてから、サトシはハルカにメッセージを入れた。「クリスマスの日なんだけど、久しぶりにメリーランドにいかない?」
1時間、3時間、10時間と経っても既読すらつかない。いつものハルカの反応の速さからすると異常なことだった。
待ちかねて、翌朝にサトシはハルカに電話した。電話をするのなんて何ヶ月ぶりだろう。でもハルカは出ない。そして1週間が経っても連絡がつかなかった。SNSのアカウントは全部削除されているようだったし、電話番号もつながらなくなっていた。暮らしていたアパートも引き払っていた。
「携帯に表示されたメッセージからプロポーズするのがバレて、重くて逃げられちゃったのかな。でも、せめて嫌だと言ってくれるくらいしたらいいのに」
こういったフラレかたをするのは想像もしていなかったから落ち込む。「メリーランドのおじさんに謝りにいかないと」なんてことを、部屋に閉じこもりながら考えていた。
そんなとき、母が部屋のドアをノックした。
「サトシ、ハルカちゃんから手紙きてるよ。それにしても、今どきの若い子なのに手紙を書くなんて珍しいわね」
ハルカから手紙を受け取るのは今回に始まったことではなかった。ハルカは時折手紙を書く。彼女の人間性が現れた、とてもきれいで真っ直ぐな字は、今回も変わらなかった。いつもと大きく違うのは、それがとても短かったことだ。恋人同士であっても、ハルカはいつも手紙を「拝啓」や「拝復」から丁寧に書いていた。
前略 サトシ、いきなりこんなことになってごめんなさい。私はもうあなたに会えないと思います。私を探そうとしてほしいですが、多分見つけるのはもう難しいと思います。こんなお別れになるのが分かっていたら、もっと沢山のことを話したかったけど、もう時間がありません。私のことは覚えておいてほしいので、この手紙を書いています。でも、忘れたほうが良いのかもしれないですね。私はあなたを全く恨んでいないし、いつまでも大好きです。 草々
何かが起きていることは明白だった。ハルカを見つけないといけない。でも、どうやって?
何かの事件に巻き込まれているのだようと思って、近くの警察署に向かった。でも、サトシの話を聞いた警察官は、丁寧だけどまともに話をするつもりないようだった。精神を病んでいる人を相手にするかのように、丁寧だけど明らかに壁を設けている。「これ以上突っ込んでくるなよ」とニコニコ顔から聞こえてくるようだ。毒虫を口に放り込まれたような気分で警察署を出た。
警察もアテにならないとしたら。ぼんやりとした気分で12月末のきれいな青空を眺めながら、サトシは彼に会いにいくことにした。「ちょっと怖いけど、まあしょうがないか」
サトシがタク・ミズノに会ったのはサトシが19歳の頃だ。人権論専攻だったサトシはいくつかの人権運動に参加していた。当時はハピネ政府から不当な扱いを受け続けてきた離島で独立運動が起きていた頃で、サトシは独立運動をしている人たちのキャンプ地での飲み会でタクに出会った。
タクはその独立運動を裏で指揮していた活動家だった。もともとは過激派として知られていた人物で、刑務所に入っていたこともある。だけど、19歳のサトシはタクと付き合いを持つことの意味も知らなかった。自己紹介をしたあと、同じ大学にいるハルカという子と付き合っていると話したら、タクが嬉しそうに寄ってきたのが始まりだ。
「おお、お前うちの娘と付き合ってるのか。もうずいぶんと会ってないが、よろしく伝えておいてくれ。これが俺の名刺だ」
正直驚いた。というのも、ハルカからは父親は自分が若い頃に死んだと聞いていたからだ。
大学に戻って、何も前置きをせずハルカに名刺を見せたら、彼女は「お父さん」とだけ、すごくか細い声で言って黙ってしまった。気まずい沈黙が流れて、その日はもう一言も話さずに別れた。
次の日、朝早くに一人暮らししているアパートのチャイムを何度も鳴らす音で目が覚めた。父だ。政府で働いている。
「サトシ、お前はタク・ミズノに会ったのか」
「うん、離島で」
僕の答えから間髪入れず、父は怒鳴った。
「お前が人権運動に関心を持つのは全く構わないが、付き合う人間を選べ、バカ。お前はこの国の怖さを知らないんだ。あいつと関わりがあるのが知られたら、お前にも公安警察のマークがつくぞ。今すぐあいつとの関わりを絶て。電話にはもう絶対出るな。メールやメッセージは着信拒否しろ、いいな」
父がサトシに怒鳴ったのはこれが最初で最後だった。あまりの剣幕に気後れして、それ以来タクには会っていない。
そんなタクに会うのは怖いけど、ハルカがいまどこにいるのかを知っている人がいるとしたら、タクだけだろうという気がした。選択肢はない。
引き出しからタクの名刺を見つけて、学校に一つだけ置いてある公衆電話から電話ををかける。携帯電話からかけるのは怖い。
「はい」
「あ、もしもしタクさんですか。サトシです。ハルカと付き合っていた」
「ああ君か。元気にしてたかい」
「はい、まあ身体は元気です。いきなりすみません。ハルカが手紙だけを残していなくなってしまったんです。タクさんなら彼女がどこにいるのか知っているんじゃないかと思って」
「そうか」
少し沈黙が流れた。
「サトシくん。何はともあれ明日会おう。ヨシダ駅に直結のコーヒーショップがあるだろう。あそこに14時にしよう。念を押す必要はないとは思うが、一人でくるように。それと、電車に乗る前に携帯電話やPCの電源は切っておいたほうがいいな」
「分かりました。では明日」
タクは前に会ったときとほとんど変わっていなかった。ジーンズにヨレヨレのシャツ、その上にダウンジャケットを着ている。丸メガネをかけ、髪はきれいに七三分けだった。50年前の労働運動家のようだった。
「久しぶりだね。サトシくん。それにしても、何年ぶりに連絡をくれたと思ったら、ずいぶんなタイミングだね」
「こんな時に限って連絡して申し訳ないと思っています。だけど、タクさん以外にハルカの居場所を分かる人はいないんじゃないかと思って」
「まあそうだろうね。大人たちは嘘をついてはいないけど、本当のことを教えてくれないからね」
「ハルカはどこにいるんでしょう」
少し沈黙が流れた。あたりをそれとなく見回した後、刺すような目つきで、タクはサトシに話しかける。
「サトシくんは、公序良俗警察のことを知っているかい」
「公序良俗警察?聞いたこともないです。公安警察ではないんですか?」
「公安なんて公良に比べたら可愛いものさ。その様子じゃ何も知らないんだな。最近の学生は人権運動に参加しても肝心なことは学ばないんだな」
「公序良俗警察はな」タクは話し続けた。
「この国の成り立ちの根幹みたいなものなんだ。この国の衛生意識がとても高いのも、治安がいいのも、皆がなんとなくルールを守るのも、全部公序良俗警察のお陰だ。
奴らの仕事は、この国の公序良俗を脅かす可能性があるものを消去することだ。文字通り、消去するんだ」
「消去って、どういうことですか?」
「簡単だよ。ゴロツキになりそうな可能性のある人間、道端をフラフラしている浮浪者、皆がなんとなく設けたルールに従わない人その他、”公序良俗の敵”を捕まえるのが仕事だ。最近はLGBTや障害者も”公序良俗の敵”に入れようという動きまであるらしい。
捕まえられた人たちは”研修所”に送り込まれる。研修所は、まあ言うなれば収容所みたいなものだな。そこから出て来た人がいたという話を俺は聞いたことがない。
研修所に送り込まれた人間たちは、そこで再教育という名の下で特別な労働に一生従事する。下水道の掃除、放射性廃棄物の運搬、野良犬の殺処分、不法滞在外国人の処理などなどだ。命令拒否をしたら、本人たちが処分される」
「そんなものが本当に存在するんですか?」サトシは動揺を隠せない。それに、なんでハルカがそんなところに。
「存在するも何も、このハピネそのものが動かぬ証拠じゃないか。君はこの国が異様に清潔であることを不思議に思ったことはないのかい?人間の集まりがこんな汚れ一つない場所になるのはおかしいと思わないのか。
人が多く寄り集まれば、そこには必ずカオスが生じるものなんだ。だけど、この国には、そういう普通の国にあるカオスが極端に少ない。なぜかといえば、カオスの原因となりそうな人間を排除し、また、その人達にカオスを処理させているからだ。この国の清潔さは、一部の人達に混沌の全てを押し付けているから成立しているんだよ。
だから僕はこの国が嫌いで、反体制闘争をしているというわけだ。ハルカには悪いことをした。僕が君に僕とハルカの関係を話さなかったら、こんなことにはならなかったのに」
サトシはもう頭がぐるぐる回るだけで、一言も発することができない。
「そして、公序良俗警察はもう一つ大きな仕事をしている。それは、国民の記憶の管理だ。”公序良俗の敵”と判定された人間たちの記憶を国民から消していくんだ。インターネットはもとより、本や雑誌にはじまり、戸籍のような公的文書に至るまで、”敵”の記録を抹消する。さらには”敵”と関わりがあった人々の携帯電話やPCに細工をして暗示をかけ、その人々から”敵”の記憶を消しさっていくんだ。最初のうちはそれでも記憶が残っているのだが、数年も経つうちに忘れていくというわけだ」
なんとなく抱いていた、「何かとてつもない物忘れをしている」という感覚はこれだったのか、とサトシは思った。子どもの頃に出会ったのに、もう忘れてしまっている大切な人たちが他にもいるのかもしれない。
「僕はハルカに会いたいんです。どうやったらいいんでしょう」
「残念なことに、公序良俗警察に一度捕まると、もうその人は帰ってくることができない。もしその逮捕が人違いだったとしても、秘密を知った人間をシャバに返すわけにはいかないんだ。
だから、方法は二つしかない。ひとつは、自分も公序良俗警察に捕まって、”研修所”に行き、そこでハルカを見つけること。もう一つは、革命を起こして、”研修所”にいる人たちを解放すること。前者では、うまく出会えたとしても一生不自由の身だ。後者は最悪死ぬ。
どっちを選ぶも君の自由だよ。だけど、覚えておいてほしいのは、一度決めたらもう元の生活には戻れないということだ。僕と会わなかったことにして、普通の生活に戻るか、ハルカのために国家を敵に回すか、よくよく考えて決めることだね。今の今まで、楽しく大学生活を送り、彼女へのプロポーズを考えていたような気楽な君には、いささか重たい意思決定であることは理解しているよ」
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2025年、ある国で新聞を読んでいたら、ハピネを半世紀の間支配していた与党が倒れ、政権下で行われていた様々な人権侵害が明るみになっていることが大スクープとして報じられていた。記事には政権打倒運動の若きリーダーであるサトシ・ヤマモトの演説の一部が掲載されていた。
国際社会は現政権が倒れたことによるハピネ国内の治安悪化を憂いています。しかし、我々は人の弱さや醜さも抱きしめて前に進みたいから立ち上がりました。美しい国は、異物を取り除くことでなく、異なる者も愛しその上で秩序を打ち立てることで作られるべきです。
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