代弁されず報道されず死んでいく人たちのこと

パリであった出来事を知ったのは事件から10時間経ってから。仕事が忙しくてニュースを見ておらず、そしてびっくりした。一番気になったのはパリに住んでいる友人たちの安否で、皆が大丈夫だと知って安心した。

そして、色々と情報を見るなかで見つけたIndependentのチャートに考えさせられた。2013年において、テロで亡くなった16,245人のうち、どの人たちがいちばん亡くなったのかについて示している。一位のイラクでは5000人以上が亡くなっている。

もちろん、悲劇は比較するようなものでもなくて、「アラブ諸国で殺されている無実の人がより多いのだから、西側諸国は黙れ」みたいな言説はおかしいと思う。そういうのはとても嫌いだ。悲劇の本質のひとつは比較不可能性にあると僕は思う。

とはいえ、声の大きい人々の間で起きた悲劇が大きく伝えられる一方で、全く代弁もされずクローズアップもされず死んでいく人(殺されていく人)たちのことを、僕はいつも考えてしまう。だから、僕は自分の友人が危うく死ぬところだったのかもしれないことについての恐れと、無事についての安堵感以上には過剰反応することはできない。途上国で働きながら、そういう不均衡を感じることが多いからかな。

もう一つ、Facebookの顔写真をフランス国旗にするのってなぜなんだろう。パリはご存知の通りの国際都市で、そこにはたくさんの外国人が住んでいる。都市の旗であれば分かるんだけど、国旗である必要はあるのだろうか。そして、やっぱりこのフランス国旗を顔写真カバーにした人々は、このチャートを見て、イラクやアフガニスタンの国旗を掲げるんだろうか。

震災があったときも日本が日の丸で囲まれて、非日本人である僕はなんなんだろうと思うことがあった。このように感じるのも自分のそういう経験から来るものであって、結局のところ人間は経験やバックグラウンドから自由にはなりえないのだろう。

そして、僕自身はどうありたいかというと、いつも声なき人、代弁されない人、報道されない人たちに自分のバイアスをかけていたいと思う。


(追記)

スリランカ行きの飛行機に乗って、コロンボについたあと気温差にぐったりして寝込んでいる間に色んな人に読まれていてびっくりしました。いくつか追記します。

Facebookプロフィールをあまり考えずに気軽にトリコロールに変えた人を攻撃するつもりはなかったのですが、読み返してみたら、そういう人が読んだらバツが悪くなるだろうなと思いました。生活の多くの意思決定において、人はそんなに熟考するわけでもない。なんとなくファッションとして国旗をかぶせた人もいると思いますし、パリに住む友人のことを思ってかぶせた人もいると思います。僕も普段の生活で何の考えもなしに色んなことをするし、それを責めたらキリがないとも思います。とはいえ、国旗には多かれ少なかれ政治性があるし、それについては書いておきたいと思いました。テーマは違いますが、無意識の中に存在する差別を僕が時々指摘するのも同様の理由によっています。

僕は悲しみに接するとただただ沈黙してしまいます。心の中の違和感を文字にするのは割と得意なのですが、悲しみを前にすると僕は立ち尽くしてしまいます。だから、「冥福を祈る」という言葉はめったに書きません。というのも、実際の悲しみに対して、それを表現しようとする自分の言葉が薄く感じられて、書きたいと思えないのです。そのために、僕は冷たい人間だとよく言われます。確かに僕は冷たい人間である可能性は高いのですが、それは決してこういう事件を通じて悲しんでいないわけではないのです。

また、パリが話題になるのは、そこに直接・間接的に関わったことのある人が多いためだという意見もありました。それも確かにその通りなのだと思います。そして、僕がこんなことを書くのも、本文に書いてあった通り、僕のバックグラウンドや今の生活拠点(途上国)と無縁でないと思います。そして、こういったテーマで意見が別れるのは、人それぞれ自分の生まれ持ったものが違うからという側面があるのだと思います。

だから、僕の意見が絶対に正しいとかを主張して人をやり込めようとするつもりは僕にはないのです。お互いの意見に耳を傾けながら、「なるほどそうか」と考えて、それで自分の考えが変わるもよし、変わらぬもよし、なのだと思います。こういった事件を通じて、熱狂が片方で起こり、それに対して若干冷静な人々の意見がおこり、それらが憎しみ合ったりしようものなら、それこそテロリストの思う壺なのではないかと思います。前にポリタスにも書きましたが、憎悪の虜にならずにいたいと、改めて思いました。

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