短編小説 夏の香りに少女は狂う その10
これまでの話は、こちらにまとめてあります。
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「初体験」を終えた後。
義之はリンの小さな頭を右腕に乗せ、ツヤのある黒髪をなでていた。
「どうやった?」
いたずらっぽく、笑う。
涼し気な目が、すうっと細くなった。
「どうやった、て言われても…」
リンは恥ずかしそうに、顔を伏せる。
それでも義之の体温を感じようと、その胸板に腕を回した。
ふわり。
甘い香りが、リンの鼻をくすぐる。
「でも、良かった…」
消え入りそうな声で、つぶやく。
「あーあ。俺、やってしもたなぁ…」
義之が困ったように、でもどこか嬉しそうにささやいた。
その大きな手が、リンの後頭部をワシャワシャと撫でる。
「なんか、ずっとこうしてたい」
リンが、腕に力をこめる。
このまま義之の体温を、鼓動を感じていたかった。
数年ぶりに見た義之は、すっかり「大人の男」になっていて…
そのカッコよさに、思わずうろたえてしまった。
少し日に焼けた細面の輪郭に、きれいに整った眉。
きりっとした、涼しげな目元。
すっと通った鼻筋、いつも微笑んで見える薄い唇。
軽く流した、男にしてはさらさらした髪。
それらは、記憶にある「ヨシくん」では、なかった。
最後に見た「ヨシくん」は、「気のいいお兄ちゃん」でしかなかったはずだ。
浜辺でキスをされた時は、胸が高鳴った。
義之に「ヤバくなってまう」と言われた時は、嬉しかった。
自分が「女」として見られている…そう思ったからだ。
明美に、
「初めての男で失敗したらイヤやん?」
と言った通り、自分の初体験は完璧なものにしたかった。
だから、義之なら…
身を任せても大丈夫、と確信したのだ。
実際、その通りだった。
触れられた部分が、義之を感じた体の奥が、まだ熱い。
きっかけは、「好奇心」と「勢い」。
義之に抱かれた理由は「性に対する興味」以外の、何物でもなかった。
だからリンは、忘れていたのだ。
「ヨシくん…」
リンは、義之の左手に、自分の指をからめた。
「ん?」
柔らかい笑みを浮かべて、義之は小さな手を握り返した。
その時、リンはちょっとした違和感を覚えた。
「ヨシくん、これ…」
リンの細い指先が、義之の左手薬指を探る。
「うん、まぁ…一応結婚してるし、なぁ」
指輪に触れられてバツが悪いのか、義之はモゴモゴと答えた。
リンの胸の奥が、ちくりと痛んだ。
だが、それを払いのけるかのように、義之の胸元にすがりつく。
義之もまた、そのきゃしゃな体を力強く抱きしめた。
「あ、そうや。ヨシくん」
「ん?」
「ヨシくん、何かいい匂いする。何の匂い?」
ずっと気になっていたことを、聞いてみる。
「ああ、これか」
義之は、リンの顔に自分の手首を近づけた。
ふわり、と甘くも芯のある香りが漂う。
「そう。めっちゃいい匂い」
「ちょっと待ってな」
いったんリンの体を離し、義之はベッドから降りた。
そしてバッグの中から、緑色の小さなビンを取り出し、ベッドへと戻る。
どうやら、香水らしい。
「ちょっとだけ、つけたげよか」
義之はビンのキャップを外し、リンの手首を取ると、1プッシュ吹きかけた。
グリーン系のフレッシュな香りの中に、凛とした強さを持つ香りがほのかに漂う。
「あ、これ。めっちゃいい匂い。なんか、すっきりする感じ」
リンは、手首を鼻に近づけ、香りを楽しんでいる。
「すっきりするんは、『墨』の香りやろな」
「墨?書道で使う、あれ?」
「そう。墨って、なんかスッとする匂いやろ?この匂いが気に入って、ずっと使ってるねん」
「線香みたいかな、とも思ったんやけど」
リンは、芳香を深く吸い込んだ。
「もうちょっと時間が経ったら、ちょっとずつ白檀の匂いがすると思うよ。線香みたいなんは、多分白檀やわ」
「でも、今のヨシくんはどっか甘い香りがするねん。これとは、ちょっと違う?」
香水に「トップノート」「ミドルノート」「ラストノート」があることを、リンは知らなかった。
香水は時間の経過とともに、香りが変化するのだ。
「多分、つけてから時間が経ってるからやろな。今リンちゃんにつけたやつも、あと2時間くらいしたら、匂いが変わってくるで」
「なんかヨシくん、オシャレやなぁ」
これまでリンは、香水に興味はなかった。
同級生女子の、化粧くさい匂いが苦手だったのだ。
でも、義之の香りは…
心が落ち着くような、満たされるような。
そんな気がした。
「オシャレっつうか…単純にコレが気に入ってるだけやねんけどな」
だいたいコレ女物やし、と義之は照れたようにつぶやく。
「いいな…私もこんなん、欲しいかも」
ぽつり、とリンはつぶやいた。
義之の「香り」が、何だか愛おしいものに思えたのだ。
「あげよか?」
義之が微笑む。
だが、リンは首を横に振った。
「ヨシくんが、この匂いするのんがいいねん。だからヨシくんが使って。で、何ていう香水か、教えて。自分のやつはお年玉貯金で買うから」
「なんかえらい可愛いこと言うやんか」
大きな手が、リンの髪をなでる。
「これな、『スピリットオブアユーラ』ていうねん。女物やけど、落ち着く匂いやからいつも使ってるねん」
「すぴりっと、おぶ、あゆーら…」
リンは、その香水の名前を脳裏に焼き付ける。
そして再び、義之の胸にもたれかかった。