夏の香りに少女は狂う スピンオフ 拓巳と義之
本編はこちらのマガジンにまとめてあります。
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西暦2019年、7月。
和歌山市内にある居酒屋のカウンターで、西浦義之は焼酎を飲んでいた。
「主任、なんで辞めるんですか。俺、どうしたらいいか、わからへんやないですか」
義之の隣では、後輩である清水拓巳が生ビールをあおる。
「いや拓巳、もう無理やて。あの部長の下で働いてたら、俺間違いなく体壊す」
苦しそうに言ってから、義之はオイルサーディンをつついた。
「主任…いうても、もうじき、子供さんかて生まれるんでしょ?奥さん今、里帰り中なんですよね?」
恨めしそうな目で、拓巳は義之を見上げる。
「まぁな。てかなんで、子供できたんやろ」
義之は、首をひねる。
「ん?どういうことすか?」
「いや、なんつうても、会社が会社やん?俺、家に帰るんほとんど夜中やったし、出張も多かったしな」
「あー…つまりは、奥さんとそないヤってなかった、てことですか」
男同士なので、会話に遠慮がない。
「そうそう。まぁ、ヤってないこともなかったんやけど、普通の夫婦よりは少ないんちゃう?」
義之は、グラスに半分ほど残っていた焼酎を、一気に飲み干した。
そして、「おかわり」と言って、空いたグラスをカウンターに置く。
「ぶっちゃけ、どのくらいヤってたんですか」
拓巳が、ついさっき焼きあがったばかりの鳥皮に、添えられていたレモンを絞った。
爽やかな香りが、ぷんと漂う。
「お、聞くねぇ。んー、どやろ?月に1回、あるかないか?」
「めっちゃ少ないやないですか!!」
驚いた拓巳は、鳥皮の串を持ったまま目を見開いた。
「だって主任、まだ27でしょ?男として枯れるには早すぎません?」
「おいコラ、誰が枯れてるって。俺かて、それなりに性欲はあるっつーの。まぁ帰るのん遅いとか休みが少ないとかもあるけど…」
その時、焼酎のお代わりが目の前に置かれた。
義之はグラスを取り、くいっとあおる。
「けど?」
拓巳もまた、ビールを喉に流し込んだ。
「なんか、その気になれんのよなぁ」
「奥さんに対して?」
「そう」
義之が、ため息をつく。
「主任の奥さんって、森本物産の社長の娘、でしたよね?」
「そう。しかも年上。そんでワガママ。すぐキレる」
「なんで結婚したんすか」
拓巳は、鳥皮をかじった。
ほどよく塩が効いていて、酒のつまみにちょうどいい。
「いや、なんか押し切られたっつーか。いうて取引先の社長の娘やん?結婚した頃は、俺も仕事辞めると思ってなかったから、塩対応もしにくかったしなぁ」
義之は、もう何度目かのため息をついた。
***
「ちょ、主任、ちゃんと歩いてくださいよ。あー、危ない」
居酒屋を出る頃、義之の足元はおぼつかなくなっていた。
半分、拓巳につかまりながら歩いている。
「主任がここまで酔うって、めっちゃ珍しくないです?」
拓巳もそれなりに酔ってはいるが、義之ほどではなさそうだ。
「あー、ちょっと、飲みすぎた、かも」
「とりあえずタクシー拾いますわ。主任のマンションまで、送って行きます」
居酒屋は駅前なので、タクシーはすぐにつかまった。
拓巳が、行き先を告げる。
義之が住むマンションは、何度か訪れたことがあったので、知っていた。
タクシーから降りる頃、義之の足取りはさらに怪しいものになっていた。
拓巳は引きずるようにして、義之をエレベーターに乗せ、部屋の前に立たせる。
「主任、とりあえず鍵、開けてくださいよ。今、奥さんいてないんでしょ?」
「んー、鍵?」
義之の目が、とろんとしている。
「そうです。鍵!!」
「ポケットの中…ふふ」
「いや、ふふ、やありませんて。鍵出してくださいよ」
「拓巳ぃ、開けてー」
拓巳は諦めて、義之のスラックスのポケットに手を突っ込んだ。
「いやん、こちょばい」
義之が、おどけたように笑う。
…あかん。主任、完全に回ってる。
拓巳はため息をついた。
何が悲しくて、男の、しかもズボンのポケットに手を入れなければならないのか。
とにもかくにも、義之のポケットから鍵を取り出し、無事部屋へと入る。
そして、照明のスイッチを探し、明かりをつける。
拓巳は、まるで軟体動物のようになった義之を、とりあえずリビングのソファに座らせることに成功した。
義之と酒を飲んだことは、これまでに何度もある。
だが、ここまで酔いつぶれたことは、今までになかった。
いつもは自力で、帰宅していたのだ。
「拓巳ー、水ちょうだい。水」
ソファの背もたれに上半身を預け、義之はヘラっと笑う。
「あー、はいはい。水ね」
この際、他人の家の台所などと言ってられない。
拓巳は勝手に冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、グラスに注いだ。
「はい、主任。持てます?」
グラスを持たせようとするが、いかんせん相手は軟体動物である。
危険なので、拓巳は自ら飲ませることに決めた。
「ほら、主任。ちょっと背中起こして」
義之の背中に手をかけ、上半身を起こす。
そしてグラスを、薄い唇へ近づけた。
義之は、グラスを持つ拓巳の手をつかみ、そのまま水を飲み干した。
「あー、うまい」
ワイシャツの袖口で、唇をぬぐう。
そして再び、義之はソファへと崩れた。
次の瞬間。
拓巳のネクタイが、義之に引っ張られた。
「あー、拓巳、めっちゃ面倒見いいなぁ。拓巳が俺の嫁さんやったら、いいのになぁ」
義之は、とんでもないことを言い出す。
「ちょ、やめてくださいよ。なんで俺が。てか、ネクタイ離してくださいよ」
拓巳が、義之の手を取る。
だが義之は、手を離そうとしない。
「俺からしたら、嫁さんより拓巳のほうがよっぽどかえらしわ。素直やし、優しいし」
とろんとした目で、義之は拓巳を見た。
その瞬間。
「主任、あきませんて。シャレにならんて」
拓巳は前のめりになる。
嘘だ、冗談だと思いたかった。
が。
それは事実だった。
まさか義之相手に、自分のモノが欲情するなんて。
それほどまでに、義之の表情は魅惑的だったのだ。
普段は「仕事のできる男」らしく、引き締まった顔つきの義之が。
今は誘惑するように、潤んだ目で拓巳を見上げている。
「アカンアカン。いや、ない。これは、ない」
拓巳はうろたえた。
とりあえず、落ち着こう。
ネクタイをつかんだままの義之の手を離し、拓巳は深呼吸をした。
ほんの少し、股間が落ち着いた気がした。
「拓巳ぃ、しんどい、ボタン外して」
うわごとのように、義之がつぶやく。
もはや、誘っているようにしか聞こえない。
「主任、頼むからややこしい事、言わんといてくださいよ」
何度目になるかわからない、ため息をつく。
それでも拓巳は、言われた通りに義之のネクタイをほどき、ワイシャツのボタンを外した。
「あー…これで、ちょっとラク。さんきゅ、拓巳」
義之は、ソファにあお向けに寝転がる。
はずみで、ワイシャツの襟元から鎖骨が見えた。
何と言うことはない、ただの鎖骨が。
さっきからの義之の言動もあいまって、妙にセクシーに見えてしまう。
落ち着きかけていた股間が、怪しくなってきた。
「いやいや。アカンて。いくら俺が、ヤりたい盛りの年頃いうたかて…これは、ない」
清水拓巳、20歳。
思わぬ展開に、冷や汗をかいた。
おそるおそる、義之を見る。
「あ…やっと寝た」
義之は、安らかな寝息をたてていた。
夏とはいえ、このままだと風邪を引くと思い、拓巳は脱衣所からバスタオルを取ってきた。
それを、義之にかける。
せめてタオルケットがあればと思ったが、他人の家なので勝手がわからない。
「それにしても主任、キレイな顔してるねんなぁ…」
今まで、義之のことを「仕事のできるカッコいい大人の男」として憧れたことはあっても、「キレイ」だと思ったことはなかった。
もしあのまま、義之が眠らなかったら。
その先は考えないことにして、拓巳はそっと部屋を出た。
(脚注)
「かえらし」→「可愛らしい」の意
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