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これでいいの?日本の防災!2

これは、今年元旦に被災した能登半島、輪島市立輪島中学校の前にある小さな公園の桜の老木。枝の真ん中から裂けていた。地震の揺れの激しさを物語っている。ふるさとは、被災後、地名の前に”被災地”という形容詞がついてまわる。この痛みから回復するまでの道のりは長く、辛い。

9月1日、防災の日に書いた、「これでいいの?日本の防災」。たくさんの反響をいただいた。これが、”まだ書かなきゃ”と思わせてくれた。心から読んでくださった方に感謝したい。

これでいいの?日本の防災!|難波妙 (note.com)

防災は、支援は、だれのために?

 宮崎の震度6弱の地震から今日で1か月、その後、気象庁が南海トラフ臨時情報を出した。この1か月、”最悪を想定した緊張感は貴重な体験”!その中で、国の政策から個人のレベルまで、何らかの気づき、改善、進展があっただろうか?

益城町(熊本)と西日本豪雨災害(岡山)輪島(石川)の避難所で私が感じたこと。

 熊本県益城町は私のふるさと。2016年4月、震度7の地震が2回。自分の母校の益城町立広安小学校の保健室を医療救護所として支援活動を発災翌日から開始。1か月、現地で活動。西日本豪雨災害、岡山県総社市災害対策本部と連動したほぼ2か月。石川県の輪島、今年元旦の震度7の地震。避難所となった輪島中学校で、発災後3週間に現地の活動に合流して半月。この私の現場体験を通じて、感じたことは・・・・。

学校が避難所になった時の現実

 学校長、教頭先生、他、先生方への負担の大きさ。これは半端じゃない!学校が避難所となった時、近所の人たち、病気の人も、障がいがある人も、高齢の人も、妊婦さんも、乳幼児も、ありとあらゆる人たちが一斉に、それも短時間に次から次に校舎に押し寄せてくる。そしてグラウンドは車中泊の車で埋め尽くされる。その後、私たちのような見知らぬ外部支援者が、どんどんやってくる。中には、泥棒もいる。こんな状況下で、突然避難所となった自分の学校で、自らも被災した先生方が、避難者への配慮もしながら、避難所運営にも関わらざるを得ない。でも心の底にあるのは、子どもたちに一日も早く”学校”を取り戻してやりたいという強い願いを感じた。
先生方のつぶやき
 「俺は、がれきの中に入ってでも、一年生のランドセルは取ってきてやりたか。入学式の後、まだ3回しか、使っとらんとよ・・・。」
 「俺は、あと、何回、ありがとう、って言わなんとだろうか? この前、支援してくれた団体の人から、まだ、お礼状一つ届かん。何を教育しとっとかって、電話がかかってきたとよ・・・。子どもたちにお礼の手紙をかかせとったけん時間がかかったと・・・。」
「入試は、地震があってもありますからね・・・。疎開先で頑張っている子どもたちのことを思うと、書類が遅れるわけにはいかないんです。」
「卒業式、少しでも晴れやかにと思って。」と職員室の片隅で静かに折り紙の花を作る先生たち。

 被災後、慰問などで、次々、外部の人たちが来てくださる。ありがたいこと。でも、先生方が望むのは、被災前と同じように、落ち着いて学べる場なのではないかと私は、そばで見ていて思った。学校が”学校”であり続けることの難しさ、これを行政は防災計画策定の段階で考慮されているだろうか?指定避難所だから、協力して当然という前提になっていないだろうか?

震災後の学校再開の日、先生たちと一緒に登校してくる児童を迎えた。

要配慮者に対する避難所の現実

 ”誰もが皆、歳をとる”という現実。小さいころから私をかわいがってくれていた近所のおじちゃん、おばちゃんと”被災地”益城町で再会。みんな、いつの間にか、おじいちゃん、おばあちゃんになってた。自分の年は忘れて、正直、驚いた。そして、避難所の高齢者の数で超高齢化社会を目の当たりにした。
 高齢者を含め、障がい者を含む要配慮者、特に医療の介入が必要な方々は、日常の生活が一変して、避難所で不安な日々が続くとQOL(生活の質)は極端に下がる。毎日の食事は、食中毒を恐れて、ほとんどが揚げ物。感染症にかかった患者さんへのおかゆなどはない。糖尿病や透析の患者さんへの食事の配慮は皆無。たとえ、健康な人でも生野菜などはないから、便秘になる。仮設のトイレには行きたくないから、水分も控える。すると、脱水にもなる。自衛隊のお風呂は、床ずれなどがあったり、介助が必要な方が利用することはほぼ不可能だ。
 そんな中で、福祉避難所が避難所の中に一画でも特化して要配慮者に対して、介護士など専門職が対応することで、そのQOL(生活の質)は、明らかに回復する。これは、避難所で、自分でおにぎりを口に持って行くほど回復したパーキンソン病のおじいちゃんが、笑顔で私にその必要性を教えてくれた。この時は家族も含め、みんなが喜んだ。 

避難したくない人もいる

 一人でも多くの人に届けたい、私の友人からのコメント(本人掲載了承)
「私の住んでいる町では、10年ほど前から障がい者の防災について議論する機会を設けてるんですが、多くの保護者は避難したくない、と言われます。ニュースで目にする避難所の様子を考えると、大声を出したり、おむつをしていたり、医療的ケアが必要だったり、明らかに人より手のかかる我が子を連れて行けるような場所ではないと思うのは当たり前です。そして、できれば障がい者の我が子と同じ日に死にたいと思っている保護者も少なくありません。そんな人たちが避難したいと思えるような避難所がほしいです。そんな人たちが生き延びたいと思える町になればと思います。」

 私は、これまでの災害支援で、避難所の中で障がいを抱えた人たちに会ったのはほんと、数名。会ったのは、車中泊や壊れた自宅での自主避難。障がいがある人たちの地域防災計画、”自助”がすべて!という暗黙の”空気”があるのではないかと懸念する。災害対策基本法には、災害が発生した場合において、主として要配慮者を滞在させるために必要な居室が可能な限り確保されること、と定められている。でもそれが現場でどれほど現実的に実施できるのか、地域防災計画に、障がい者への細かい視点が想定されているだろうか?

被災直後の輪島中学校体育館。この後避難者がどんどん増えていった。

受援を想定した防災計画

 仕事柄、自治体のトップとお会いすることも多い。みなさん、自分の地域の防災対応は、まずは自分たちで!と考えていらっしゃる。とてもすばらしい。ただ、その中に受援を想定されているだろうか?
 あまり外部から人がいっぱい入ってきて、混乱するのは困る。そう、根底にあるのも無理はない。それは、みんな同じ。でも現実は、自治体同士の対口支援、外部からの必要な支援、一般ボランティアを受け入れることで、復旧、復興への道筋に光が差す。西日本豪雨災害のときに、それまで何度も災害支援に職員を派遣していた総社市の片岡市長は、私に、「支援に行くより、支援を受け入れるほうが何十倍も大変」と言った。西日本豪雨災害の際、総社市の災害対策本部には、それまで総社市の災害支援を受けた自治体からの派遣者が、自らの被災経験を糧として、次々と直面する問題に一緒になって立ち向かってくださった。そして、それに触発された地元の大勢の高校生が動いた。中には小学生や中学生もいた。次のまちづくりを担うのは彼らたちだ。

災害対策本部に集まった高校生。活動にかかわった高校生はもっとたくさん!

 今回の南海トラフ臨時情報は、南海トラフ地震の対策推進地域に指定されている29都府県707市町村に初めて出された。この時、その対象地域が対口支援先になっている自治体は、どう動いたのか気になるところ。
受援をあてにした防災計画ではいけない。しかし、受援を想定していない防災計画は相当混乱する。混乱したら、その矛先は、被災者へと向く。特に要配慮者と関係者には辛い我慢の日々を強いることになる。

防災計画、支援は、誰のために?を今一度、この緊張感を忘れる前に考えてみたい。そう、災害は忘れたころにやってくるのだから。


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