描くことを社会的成功の手段とせずに、それでも描き続けた画家(1)/「富永親徳」展・はけの森美術館
JR中央線・武蔵小金井駅下車、徒歩約15分の場所にある、はけの森美術館で開催された「富永親徳という近代洋画家がいたー記憶と場所をたどるー」展を年末に観に行き、年をまたいで、本展特別レクチャー「石川欽一郎と台湾」を聴講するために再度、訪問しました。
美術館一帯は、洋画家・中村研一が戦後から晩年まで過ごした土地にあり、旧宅の庭(現在は美術の森緑地)は、武蔵野の森の面影が感じられました。
旧宅の主屋は、喫茶店としてオープンしていて素敵な室内とメニューを楽しむことができます。(訪問した土曜日は混んでいました)。
◎ さて、本題。
私が気になり足を運んだ理由でもある「描くことを社会的な成功の手段にしなかった」しかし「描き続けた」。そしてそれが「一つの、幸福な結末だったかもしれない」というのはどういうことでしょう(チラシ・HPの言葉より一部引用)。
展覧会と特別レクチャー、図録から得た情報をもとに、ほんのさわりになりますが、私が理解した範囲でご紹介したいと思います。
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◎ 富永親徳と絵画の出会い
富永は、1896年に熊本で生まれ、家族で台湾に移り住みます。石川欽一郎が立ち上げた「写生班」がきっかけで10代前半から絵を描き始め、コツコツと応募や個展を開催するなどして実績を積み上げていきます。22歳で結婚、翌年、台湾を離れて東京美術学校西洋画科(東京藝術大学)に入学します。
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◎ ところで、石川欽一郎とは?
当時、台湾は日本の統治下(1895−1945年)にあリました。そこへ、軍人で通訳官の石川欽一郎が派遣され、同時に、現地で美術も教え始めます。
石川は近代美術家の第一人者ですが、人柄もよく、軍服ではなく背広に蝶ネクタイを身につけるような人で、戦争に対して否定的な言葉を述べることもありました。
けれども、第二次世界大戦で日本が敗戦したことにより状況が一変します。
軍に近しかった石川は世間から否定的に見られるようになり、彼の弟子たちも評価がされない時代が長く続くことになります。また、日本でなく周縁の台湾で活躍していたことも、正式な評価が受けられない理由として挙げられるようです。
絵自身が持つ素晴らしさとは別に、時代が絵の評価を決めることがあるということだと思います。
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◎ 一方、富永は自分の道を進んでいた。
富永の人生に戻りましょう。
富永は、28才で美術学校を卒業し、同年、台湾で展覧会を開催します。しかしそのタイミングで、洋画家の夢を応援してくれていた父が急逝。
生前、父は、経済面や家族の生活を慮って、図画教員をしてみたらどうかと手紙に書いていたようです。これは夢を否定しているわけではなく、安定した生活をしながら洋画家の道を進むのもいいのではないか、という提案でした。
次回へ続く ↓↓