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【散文・考察】ドーナツの穴はたぶんおいしい

いつもどおり、短歌から詩を書こうと思ったけれど、自分で詠んだ短歌を後から読むと、いまいちだったり残念だったりして、ここからどうやって詩を書くのか、というのが多々ある。

以前、ドーナツをテーマに詠んだものがあるので、ドーナツで詩を書こうと思ったけれど、いまいち進まない。ドーナツと穴で検索なんかしてみる。

そうすると、「ドーナツを穴だけ残して食べる方法」という本がヒットする。さまざまな分野の人たち(工学、美学、数学、精神医学、歴史学、人類学、応用化学、法学、経済学)が、あれこれと考えた本。

ここでいうドーナツはリングドーナツのこと。中身は読んでいないけれど、ちょっと考えてみることにした。

認識の問題だと思って取り組んでみる。まずは「穴」の定義。穴とそれを囲んでいる物体の関係について。どこまで穴が大きくなると穴と認識しにくくなるのか。

たとえば、土星は土星の環の穴の中に土星本体があるのか。たぶん、あれはリングであるけれど、穴が開いているとは言わない。

たとえば、2メートルのロープの端を結んで輪を作ったときに、それは穴と言うのか。たぶん、あれは穴とは認識はむずかしい。

穴というのは、もともと開いていないところに開けた場合に言うことが多く、穴以外の周りの物質のほうが大きい場合に使う。周りよりも穴のほうが小さい。

そして、穴は穴以外の周りがあってはじめて認識し存在できる。穴は穴以外がいなければ存在できない。穴と穴の周りの存在はセットだ。

ドーナツに話を戻すとドーナツの穴はドーナツ本体とセットだ。当たり前だろう、と思うだろう。でも、まずはそこを定義していかないと前に進まない。

ドーナツをひと口食べて欠けたドーナツ。その中心の穴もかける。けれど、欠けた穴はドーナツの穴だとまだ認識できる。

次にドーナツを半分にする。そのとき、ドーナツの穴は認識できるだろうか。ドーナツの穴があった、と過去形で語ることはできるけれど、このあたりになるとドーナツの穴がそこにあるとは言いがたい。ドーナツを半分にしてラッピングして店に並べて、その姿を見てドーナツの穴はあると言えるだろうか。ベーグルでもいいけれど、穴の認識は無くなってしまう。

ドーナツの穴はドーナツ本体に依存しているので、ドーナツを食べることはドーナツの穴をいっしょに食べることになる。でもこれだと、ドーナツの穴を残す、という目的に達していない。

ドーナツを食べるとき、ドーナツの穴を認識して、ドーナツの穴は残すという意識が必要になってくる。でもこれだと第三者からは認識されない。けれど、そういうものだ。ドーナツの穴を残して食べたと記憶や記録に残してもその食べ残した穴の消費期限は約1日。なぜなら、ドーナツ本体と穴はセットだから、ドーナツが消化されてしまうと穴もいっしょに消えてしまう。もし、ドーナツの穴を食べたいのならば、早めに食べてあげないといけない。そしてそれはたいていは本人しか認識できない。せめて、その場にいた人がいっしょに認識してくれるかもしれないけれど、せいぜいそのくらい。

まれに星の王子さまのような人が現れて、ドーナツのあった何もない皿を見て
「なんでドーナツの穴を食べ残しているの?」
「なんでわかるの」
「その皿を見ればわかるじゃん。一番おいしいところなのに。おいしいところは最後に食べる派なの」
「そうじゃないだけれど、ドーナツの穴だけ残して食べる練習をしていたんだ」
「変わったことするね。食べないなら食べていい? おなか減ったんだ」
「いいよ」
と言ってお皿を渡すと、なにもない空間をつかんだ。確かに意識してドーナツの穴を残した場所だ。そのドーナツの穴を見事につかんだ。それを口に持っていき、もぐもぐと食べ始めた。
「やっぱりドーナツの穴は最高だね」
といっておいしそうな笑顔でもぐもぐする。
私はカフェの店員にドーナツを2つ追加注文した。

という感じ。でもドーナツの穴を認識できる人は、目の見えないものを見ることができる人だけかもしれない。

もし、ドーナツの穴を認識できる人がドーナツの穴だけ先に食べてしまったらどうなるだろう。

ドーナツの穴を先に食べてもドーナツ本体は残っている。物資の影を先に無くしても、本体は残っているようなもの。でもすこし味気なくなるかも。

影があってはじめてその物質はより立体的に認識できる。それとおんなじでドーナツの穴があるとよりドーナツはおいしく感じているのかもしれない。穴のないドーナツもおいしいけどね。ドーナツの穴を食べ残すのはもったいない。たぶんそこはおいしいところなのだから。




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