『日本文化の核心』『風姿花伝』『パンとサーカス』
松岡正剛の『日本文化の核心』、世阿弥の『現代語訳 風姿花伝』、島田雅彦の『パンとサーカス』を同時進行で読む。『日本文化の核心』は松岡氏の逝去を知ってから、あらためて彼の作品に触れてみようと思い手にした。随分と学びが多い。早稲田大学文化構想学部の国際日本文化論プログラムに通う学生などにとっては、必読の書なのではないだろうか。書名の通り、日本文化の核心が次々と露わになっていく。日本文化の持つデュアル、「行ったり来たり」という、この辺りの感覚というものを一人の日本人として認識しておくか否かということは、今後の人生に随分と影響するようにも思う。
『日本文化の核心』から、世阿弥の『風姿花伝』に流れる。岩波文庫版もあったが、古文はからきし苦手なのでPHP研究所の現代語訳で。「初心忘るべからず」や「秘すれば花なり」が世阿弥の言葉ということを初めて知った。お能は、白洲正子や内田樹経由で大変興味はあったが、その原点を読むのは初めて。
そんな内田樹のブログの最新のポストが島田雅彦の最新作、『パンとサーカス』の書評ということもあり、こちらも早速購入。読み始める。奇しくもこの数日に読み始めた三冊の本、すべて日本という国に対する考察の書。内田樹と島田雅彦は白井聡のYouTubeの番組でも度々共演している。『パンとサーカス』も、あの番組の独特の雰囲気を若干漂わせているような気がしないでもない。リベラル色の強い、しかしエンタテーメントとして一気に読ませる力を持った大変面白い小説。
小説を読むのも久しぶり。『パンとサーカス』の後は、村上龍の『愛と幻想のファシズム』を読もうと思っている。
そんな中、バランスを取るために、というわけではないが、NewspicksのHORIE ONEの、堀江貴文と河野太郎の対談を見る。これはこれでなかなか興味深い。
マイナンバーカードの話などを聞くと、国家主導でこのままデジタル化を促進させていき、暮らしがどんどん便利になればそれに越したことはないのではないか、と思われてくる。もはや革命を起こそうという気などさらさらないのだから、国が国民の情報を一元的に管理して、業務を効率化することに何の問題があるのだろうか、と。個人情報なんてそもそもダダ漏れだし、漏れたところで大した痛痒もないのだから、どんどん吸い取ってもらって構わないとすら。
一方で、2019年に仕事で訪れた香港のことも思い出す。逃亡犯条例に反対するデモの真っ只中、抵抗する学生の情報は中国政府に握られ、その動きは随分と抑制されていた。国家による圧倒的な監視をどのように捉えるのか、というのは政治哲学の重要問題でもあるだろう。この辺りに関しては、慶應義塾大学法学部の大屋教授の『自由か、さもなくば幸福か?』が大変参考になる。
国家と個人の権力関係、おそらくは、社会に対する時間の射程によって意見が分かれるのではないだろうか。社会を自分一人が生きるものとして捉え、その賞味期限を自分が死ぬまで、とするのであれば、あと数十年、中央集権的な国家の管理のもと徹底的に業務の効率化を図ってもらっても構わない。ただたとえば子供ができて、どんな人でも暮らしやすい社会を百年単位で作っていこうと思うのであれば、そしてそのような社会を作る当事者として自分が今ここにいると思うのであれば、国家に全てを委ねるのにはやはり不安が残る。国家の管理の届かない領域を残しておきたい、という気持ちもわかる。フーコーが露わにしたように、国家は巧妙に個人のあり方を拘束するのであり、それにより個人の自由が奪われるのであれば、やはり国家に対する批判的なまなざしは意識的に担保しておく必要がある。国のやることに何でもかんでも反対する、ということではもちろんないにせよ。
『日本文化の核心』に戻る。ここまで使ってきた「国家」という言葉。日本では、「国」は「家」と一緒に使われる。英語のnationにもフランス語のpaysにも、家というニュアンスはない。「国家」という言葉を最初に使ったのは聖徳太子とされているそうだが、という、ここまで読み終えた。続きはまた今度。