浅野典子&芥正彦のRadio JAGがとんでもなく面白い
職場に行くまで、ラジオがわりにYOUTUBEを聞いている。宮台真司さんが出ている番組を時々聞いたりするのだが、その中でたまたま出会ったのがRadio JAG。パーソナリティーの浅野典子さんのことは存じ上げなかったのだが、この浅野典子&宮台真司の回が大変面白く、特に浅野さんがグイグイと宮台さんに迫っていく部分なんかに新鮮味を感じて、ずいぶん聞き入った。
浅野さんはもともと全国最大規模の暴走族のトップだったらしく、捕まった時は「少女A」として全国レベルで話題になった。その後は表現の仕事をしながら、現在ではアフリカの支援などもされている様子。この番組の中で、浅野さんと宮台さんが大変なリスペクトを持って語る芥正彦氏、彼のことに興味を持ち、今度はRadio JAGの浅野さんと芥さんの回を聞いてみたところ、これが輪をかけて面白い。
芥正彦氏は60年代の学生運動の時代、伝説の討論とされた東大全共闘と三島由紀夫の決闘において全共闘側の最大の論客としても注目を浴びた人。赤ん坊を連れて壇上に上がり三島氏と議論を交わす様子を見たことがある人もいるかもしれない。ただ、芥田氏自身は一貫して演劇の人で、三島由紀との討論の前から寺山修司と「地下演劇」という雑誌を作ったりと、演劇人としてすでに名を馳せていた。三島氏との討論も、彼にとっては一つの演劇だったのだと思う。
その芥氏が大きな影響を受けているのが、フランスの(ブルトンとは袂をわかったが)シュルレアリストにして演劇家のアントナン・アルトー。そして私が大学、大学院と研究対象にし、その研究のためにパリに渡ったのもアントナン・アルトーだった。Radio JAGの新年最初のゲストとして芥氏が出演した際の、彼が最初に挙げた奇声もアルトーの「神の裁きと決別するために」を踏襲したものだし、そもそもメディアに登場する際の芥氏の出たちそのものが、まさにアルトーという印象を受ける。
アルトー自身は俳優であると同時に文筆家でもあり、ただ、やはり演劇人というのが最も正しいのだろう。最後は精神病院に入り、電気ショックでボロボロになりながら朽ちていったが、その生のあり方そのものが60年代にジャック・デリダやジル・ドゥルーズによって再評価された。そして、その影響は今も続いている。『演劇とその分身』において展開した分節言語による表象の臨界を超えた表現、あるいは生のあり方の可能性は、個人的に今でも重要な問題系と感じられる。アルトーは現在の俳優は叫ぶことができない、と言った。芥氏は赤ん坊がこの世に生まれた時の「オギャー」という泣き声は、「私はここにいます」(フランス語だと"Me voici"だろう)という宣言だと言っている。自分の存在の、あるいは身体の根源から生まれた音声が空間を震わせる、という、この様な声を持ちうるのか、というのは人間が人間として生きているのか、ということを測る上での大切な指標になるのではないか。
芥氏が約50年ぶりに「地下演劇」を続刊させた、ということで、早速購入。明日には届くはずなので、楽しみにしている。
この流れの中で、映画『三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実』も、本日初めて見た。かなり分かりやすい編集をされているきらいはあるものの、面白かった。確か内田樹さんが言っていた様に思うが、あるいは平野啓一郎氏だったろうか、戦前にあった国家と自分の生というものが一体と感じられる、ある種の高揚感が剥奪された時、個人がどの様に生き得るのかを探ることが戦後の三島の問題だった、というあたりは新たな視点だった。「天皇」を持ち出すことによって個人の生と国家とを融合させようとする、その涙ぐましい闘争。歴史という大きな物語から切り離されたときに、三島の場合その物語は天皇を中心とする「日本」という幻想だったのかもしれないが、個人はその孤独の中で生きながらえ続けられるのか。三島氏と芥氏との討論から、そんなことを感じた。三島由紀夫は言った。「私は日本人を超えなくていい。」
Radio JAG、芥氏が出演している回もまだ全ては聞き終えていないわけだし、これからフォローしていくことにする。何よりも、浅野典子さんが素晴らしいです。存在の根源的な部分をエンカレッジされる番組なので、大変お勧めです。