ミラン・クンデラ 『ジャックとその主人』
ミラン・クンデラの『ジャックとその主人』の序文を久々に読んでいる。
1968年、ソ連軍の侵攻により終焉を迎えたプラハの春、同時にその全ての著作が発禁処分となったチェコの作家による戯曲、その序文。曰く、キリスト教がユダヤ教から分離された時に、感受性はそれまでの法に変わる一つの価値、あるいは真実の判断基準となった。すべては内面的な感受性によって判断される、それは恐怖の世界でもある。そのような基軸のカウンターパートとして現れたのが、ルネサンス期の批評精神、つまり理性、遊戯、人間性の相対化である。一方、ロシアはルネサンスの欠如という点において、西欧の歴史とは異なる。例えばドストエフスキーにおいて、すべての世界は感情の渦へと飲み込まれていく。
小説というものは、読者に何らかの答えを提示するものではない。ドン・キホーテがサンチョ・パンサと冒険の旅に出た時、世界は大いなる疑問符へと変わった。小説とは、すべてを疑い、すべては気晴らしであり、すべてが遊びである、そのような世界に対する眼差しを提案する。
確かラブレーが作ったのだと思うが、そしてクンデラ自身もどこかで言及していたように思う、『笑いと忘却の書』だっただろうか、「アゼラリスト」という言葉がある。あまりにも真面目すぎて、決して笑わない人。自らの感受性を絶対視するが故に世界に対する眼差しの揺らぎを失った人。現実にとらわれない想像力の自由を手にする、それが近代小説のひとつの「効能」なのだとしたら、いまこそ小説は必要なのではないか。自らを笑うことができるということが、知性の証明でもあるのだから。
[追記]
クンデラが昨年の夏に亡くなっていたということをいま知った。享年94歳。ロシアのウクライナ侵攻をどのような思い出見ていたのだろうか。クンデラを知ったのは、大江健三郎のエッセイの中でだった。その大江も、やはり昨年、亡くなっている。大江が師匠とした渡辺一夫が専門としたフランスユマニスム、その精神性を現代において引き継いでいたクンデラの死去といまの世界情勢。世界に対して人文学はいったに何ができるのか、大いなる問いが投げかけられている気がする。
クンデラの作品群が、電子書籍でも読めるようになったようだ。久々に再読してみようと思う。