東海洋士『刻丫卵(こくあらん)』考
(1)この物語は、「<刻卵>とはなんだろう」という謎を駆動力とする幻想譚である。<刻卵>は、われわれの認識能力を超えたものとして設定されている。<刻卵>は、複数の時計がはめ込まれ、竜頭もある物体であるが、ダリの溶ける時計の立体版であるかのように、ゆがんだ卵の形をしており、制作年代を特定することもできないし、そのメカニズムを解明することもで
きないし、それがどのような用途のものなのかもわからない。それどころか、機械か、生き物なのかもわからない。
これの類似品は、ボルヘスの「砂の本」ではないか。「砂の本」には無限が詰め込まれており、いったん開いたページを閉じると、二度と同じページを開くことができない。
われわれは、われわれの理解を超えたものに対し、恐れを抱く。「砂の本」を手に入れた男は、最初嬉々としているが、そのうち不気味に感じて、燃やそうとする。しかし、燃やすと無限の煙になって、世界は煙に包まれるのではないかと思う。
(2)この物語は、祝座岳雄と六囲立蔵のしゃべくりによって、あれよあれよといううちに、先に進んでゆく。祝座岳雄は、放送作家であり、東海洋士の経歴が反映している。ふたりのしゃべくりは、漫才のようにも聴こえる。そう、この文体は、読む文体というより、聴く文体である。
(3)この物語には、天草四郎の悲惨な最期のシーンが挿入されている。その章は、すべて漢数字の章である。
一方、アラビア数字の章では、祝座岳雄と六囲立蔵らの現代の話が書かれている。
漢数字が江戸で、アラビア数字が現代かと思うと、六が現代の章であることがわかる。つまり、漢数字が江戸で、アラビア数字が現代という仮説は成立しない。
天草四郎の章では、<刻卵>が常に天草四郎のかたわらにあり、あたかもその悲惨な最期を誘導したかのようなまがまがしさを持つものとして描かれている。<刻卵>が、天草の血を浴び、血を吸収しているのではないか(<刻卵>=吸血鬼説)と思えるように描かれている。
しかし、六の章を読んでゆくと、<刻卵>と天草四郎の関係は、<刻卵>のパーツを他人から奪うために祝座岳雄がつくった創作であることがわかる。つまり、漢数字の部分は、祝座岳雄がつくった虚構であるということになる。
(4)では、<刻卵>がまがまがしい呪物であるということは、祝座岳雄や六囲立蔵の間に生じた妄想なのだろうか。
『刻丫卵』は、後半になると、非常に気分が悪くなってくる。これは、単に物語が怪異を語っているためではない。
ひとつの章では、ひとつの視点というのが、普通の小説の常識であるが、『刻丫卵』では祝座岳雄の視点で語られたかと思うと、今度は六囲立蔵の視点で語られるのである。そのうち、祝座岳雄でも、六囲立蔵でもないアングルからの語りが紛れ込み始めるのである。
その試みが臨界点に達するころ、六囲立蔵のもとに電話が入り、祝座岳雄だけが<刻卵>を見守るなか、<刻卵>は非在と実在の間を周期的に往復し、点滅し始め、その正体を開示する……。これは祝座岳雄の幻覚なのか?
ここで、東海洋士は、小説の中に、映画で使われるフリッカー効果という手法を導入したと思う。明と暗の反復によって、無意識に不安をかきたてる怪奇映画の手法を。
(5)『刻丫卵』は小説で書かれた吸血鬼映画ではないか。無論、ここには吸血鬼は登場しない。
しかし、<刻卵>ではなく、<刻丫卵>であると語り、「喰らふてやる」と語りだすこれは、吸血鬼の変形なのではないか。
(6)これは、われわれが創り出した幻影によって、われわれ自身が喰われる話であるともいえる。
ユングは『空とぶ円盤』で、空とぶ円盤をわれわれの集合的無意識の投影としながら、いまやわれわれは空とぶ円盤に投影されているのだと語ってしまう。
空とぶ円盤がユングの分裂した自我であるとするなら、<刻丫卵>もまた、自我本体より力を有するようになったもうひとつの自我なのかも知れない。
初出 烏鷺堀酒造売店註文帖 投稿日 2004年7月19日(月) 17時41分~7月19日(月) 18時17分
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