高橋哲哉『靖国問題』
高橋哲哉は哲学者であり、戦争責任問題(歴史修正主義批判など)と、『他の岬』『有限責任会社』などの後期ジャック・デリダの翻訳と研究を行っている。高橋のデリダ研究は、法と正義を巡るものであり、言語の戯れと郵便的脱構築を軸にした東浩紀が意図的に見落としている部分の研究といえる。高橋の戦争責任問題を巡る問題機制には、直接語られることはなくとも、後期デリダ的実践の一形態と看做すことができるのではないかと推察する。
ジャック・デリダの師匠格にあたるのが、ルイ・アルチュセールであり、アルチュセールの「重層的決定」の思想を突き詰めると、デリダの「脱構築」の思想になる。
仮に靖国問題に対しても、高橋がアルチュセール的パースペクティヴをとったとするならば、靖国神社を国家のイデオロギー装置(AIE)として見ているということになる。この場合、戦争中の靖国神社は、宗教的AIEとして国家装置を円滑に動かすために機能していたといえる。戦争当時の国家装置の方向性とは、自国の利益のために他国を侵略し、その生命・財産を奪ってもいいという軍国主義的・帝国主義的方向性である。
アルチュセールの「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」は、『再生産について』の一部であり、AIEが次世代を再生産するということに着目している。つまり、宗教的AIEとしての戦争当時の靖国神社は、次世代の軍国主義的・帝国主義的青年を、見えないイデオロギー面での教育によって再生産する機能を持つのである。
戦争中の靖国神社とは、何だったのか。それは他民族を虐殺・蹂躙する兵士を英霊として称え、国や天皇のために息子や夫が死ぬという苦痛を、誉れの死として受け止め、感動の悦楽に転化させる宗教的AIEである。この宗教的AIEは、他の国家装置と結合して機能することによって、他民族をジェノサイドし、さらには目的遂行のために死をも厭わない国家権力のための生きたロボットを量産する働きを持つ。
靖国神社は、明治2年(1869年)6月に創建された東京招魂社が始まりであるから、他の神社と比べると歴史は浅く、国策のための神社であるといえる。ただし、これが本物の宗教ではないというのは誤りで、大量殺戮と自死を悦楽に転化するほどであるから、紛れもなく本物の宗教であるといえる。ただ、神道のテクネーを黒魔術的に悪用した宗教であり、権力に追従し、精神を閉塞させる方向に向いているというのが、根本的に異なるのである。
はっきり言おう。靖国神社とは、戦争当時日本のほぼ全国民を信者にしていた巨大殺人カルト宗教なのである。信者数が多いがために、またバックにいる黒幕が国家であるがゆえに、その邪教ぶりが見えないだけで、かつてのオウム真理教のテロ事件を上回る規模で、国際的にやっていた巨悪集団なのである。旧オウムの犯罪を恐れるくらいなら、それと同時に靖国神社にも警戒を払うべきなのである。彼らは、自民族中心主義的で、自国に都合のいい方向だけを考え、そのためにはどんな非道なことでも許されると考え、まず皇国史観でロジックの面で洗脳し、さらには神道霊学の悪用によって、悪事をする度に脳内麻薬物質がだらだらに出るように餌付けする手口を使うのである。
こうしてみると、総理大臣による靖国神社公式参拝の問題性が、より鮮明に浮かび上がってくるだろう。総理による公式参拝は、日本国憲法の定める政教分離原則に反する行為であるが、日本国憲法の精神に立ち返り、再度考え直してみよう。まず、この行為は特定の宗教法人を特別扱いすることであり、他の宗教や無宗教を信じるものに対して不利な扱いをしていると看做される。また、政治が特定の宗教と結びつき、政策として実行するということは、国民に対するマインド・コントロールに該当することになる。つまり、信教の自由を脅かす可能性のある行為であるといえる。
さらに、この神社はA級戦犯を合祀しており、そのことから今尚、第二次世界大戦(靖国流に言えば、大東亜戦争)における日本の戦争行為を肯定していると看做される。第一、靖国神社自体の法人格としての戦争責任が問われる必要がある。戦争中に靖国神社が果たした役割を考慮するならば、A級戦犯を分祀するだけで免罪されるとは思われないのである。
初出 mixiレビュー 2006年06月25日 17:42
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