スタンドバイミー函館①「一本の紙テープ」
一本の紙テープ
「開けて、開けて、開けて」
「5時間目、女子だけ集めて、先生が何か話してたよな」
「男子を除けて、何話してたんだよ」
「開けて、開けて、開けてよ」
「あっ、後ろの出口に行ったぞ、後ろ、後ろ」
「何の話をしたのか、教えてくれれば、開けるよ」
「何の話だよ」
「―――――」
私米沢忠夫六年生、学校は2階建ての木造校舎で、2階の窓からは、遠くに函館山が見え、すぐ目の前には、競馬場と保安隊の名称から、変わったばかりの、自衛隊の駐屯地が見える。
放課後先生の指示で、学習委員の石井、保健委員の安藤、生活委員の米沢、給食委員の女子の竹田の学級委員4名が残り、一ヶ月後に迫った、修学旅行の班分け、係り、決まり等諸々話し合い、明日の学級会にかける打ち合わせをした。終わりに、黒板に明日の当番名を書いて終了、解散の予定であった。しかし今日の5時間目、男子は課題を与えられて自習、女子だけが別の教室で、何か先生から話が合った。戻って来た女子達に、気楽に、
「何だったんだ」
「何の話」
と聞いても、
「ううん別に」
「修学旅行の注意よ」
と、何となくよそよそしい。
「修学旅行の注意なら、男子と一緒でも良いのに、怪しい」
興味津々となり、それで、男子3名が竹田さんに、強行手段で聞き出そうとしたのである。入口の戸を、廊下側から開かないように抑えた。そのうち後ろの出口に、バタバタと走る竹田さん、我々も急いで後ろに走って押さえる。
「開けて、開けてよ」
「何話してたんたよ」
何度かそれを繰り返して、とうとう、
「分かったわよ、言うから開けて」
「ようし」
戸を開けた
「あの、女子は股から血が出ることがあるの」
と言って、足早に帰って行った。3人はしがらく無言。帰りながら、
「血が出るって」
とつぶやき、互いの顔を見合わせ、それ以上何も言わずに帰った。
それから3日後、あの巨大台風が函館を直撃した。台風15号、死者行方不明1430人を出した洞爺丸台風である。大きな台風の割に、我家も、近所も、学校も大きな被害はなかった、ただ港で連絡船や貨物船が沈んで、大変な事になっているとの情報は入ってきていた。
次の日学校に行った
「台風、風がすごかったな」
「すごかった、でも俺ん家は大丈夫だった」
「連絡船が沈没して大変らしいよ」
等と友達と話し、学校も変わらずの時間割であった。ただ斜め前の竹田さんが休んでいる。その次の日も、少し気になった、そして三日後、彼女の机の上に小さな花瓶が置かれ、花が飾られていた。朝先生が
「竹田さんのお父さんが、台風15号でお亡くなりになりました」
私は瞬間あの時のことが思い出された。ふと窓の外に目をやった。眼下には、自衛隊の衛兵がいつもの通り、門前にスックと立ち、日章旗が激しくはためいていた。
一ヶ月後、修学旅行が予定通りやって来た。
東北の松島、仙台方面である。母親が、
「見送りに行こうか」
「いいよ、恥ずかしいから、いいよ」
と、断った。当日、ホタルの光のメロディーと共に、銅鑼が響き渡る。甲板に上がると、なんと大勢の見送りの人がいて、大半の友達が、テープを持って、手を振っているのではないか。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
さまざまな歓声、その中に竹田さんもいた。
「あの時はごめんね」
「ううん」
「大丈夫、連絡船に乗って」
「私、私、この眼でこの海を見たいの」
「父の乗っていた連絡船から」
そして、しっかりとテープを握っていた。
「米沢さんは」
「俺は来なくてもいいと言ったんだよ」
と、言った後で、周りの歓声の中、急に寂しさが襲ってきた。その時、桟橋の大勢の人の中に、母の姿が目に入った。探している様子で、顔を左右にめぐらしていた。目と目が合った。母はホットしたようで、笑いながらテープを思い切り投げてよこした。しっかりと受け止めた。私は竹田さんと顔を見合わせ、苦笑いを浮かべた。この一本の紙テープに、それぞれの思いが、気持ちがつながっていると、熱く感じた瞬間であった。
「ガンガンガーン」
銅鑼の音が一段と高く鳴り響き、ホタルの光のメロディーが哀愁を帯び、連絡船は色とりどりのテープを延ばし、桟橋からしだいに離れていった。
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