最後の料理と大阪ラプソディー
帰省してもホテルに泊まっていた時期があった。
それじゃあ帰省とは言わないか…
子どもたち(父母にとって孫たち)が大きくなってから年に一回程度一人で実家に帰っていた。
ギリギリまで日程を決めず「明日行きます」みたいなことをしていたら、父からもっと早く知らせるように言われた。
当時の父母らは七十代、趣味や習い事を愉しむ悠々自適の生活をしていた。
とは言えそれなりに老いて体力も落ちた。
泊まるとなると準備があるので前もって知らせて欲しいと。
何も準備なんてしなくていいのに…
と思った。
そう言う問題ではないということは今の私なら分かるが、そのときは分からなかった。
以後連絡は早くするようにはしたが、ホテルを取って世話をかけないように、お昼ご飯はデパ地下で土産がわりに調達した。
そんな里帰りを、十年くらいしていただろうか…
久しぶりに実家に泊まり継母の手製の朝ごはんをいただく段になると父が言った。
このごろK子(継母)は(箸や醤油さし急須など)何かしっか忘れて、ちゃんと揃ってることがねえんだよ。
K子さんはモジモジしながら薄く笑っている。
そりゃあ忘れることもあるよね、お父さんが気がついたら出してくればいいじゃない?
久しぶりに帰ってきたのに気まずいのはご勘弁。
翌年また帰省した。
昼食に寿司の出前を取ってくれていた。
K子さんは台所に立ち、しばらくすると竹輪の蒲焼を作って皿に盛ってきた。
父は
なんだよ、K子、寿司があるんだからこんなものいらねえのに。
K子さんはモジモジしながら薄く笑った。
いいよ、私これ好きだよ、美味しいもの。
私は言った。
竹輪の蒲焼はこの家から通勤していた独身の頃に、お弁当のおかずに詰めてくださっていた。
いつもは社員食堂で済ませていたが、お金がピンチになるとお弁当を頼んだのだ。
白ごはんの上に竹輪の蒲焼がひと並べしてある。
味は良いのだがあまりに味気ない。
社食で弁当を開き、なんだか貧しそうなお弁当だと文句を言った。
同席していた先輩に、せっかく作ってくださったのにそんなことを言うものじゃないと嗜められた。
先輩は頗る歌の上手い方で十八番は『大阪ラプソディー』だった。
K子さんは物忘れが著しくなり、役所に申し込んだ認定調査を待つ間に小脳出血を起こして入院手術となった。
それからはあれよあれよと認知症が進行し三年前に亡くなった。
あの日お寿司と一緒に食した竹輪の蒲焼が、私が食べたK子さんの最後の料理になった。
私はカラオケで『大阪ラプソディー』を歌う。
めっと睨んだ先輩と、K子さんの薄い笑顔を思う。
時々思い出して竹輪の蒲焼を作る。
※ヘッダー画像は へんさんよりお借りしています。
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