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史蹟 津和野城址~①出丸

令和5年5月5日の記録です。

津和野霊亀山つわのれいきざん 史蹟しせき 津和野城址つわのじょうあとを散策する

津和野城(つわのじょう)は、石見国鹿足郡[1]津和野霊亀山(現・島根県鹿足郡津和野町後田)[2]にある日本の城。城跡は国の史跡に指定されている。

Wikipedia津和野城より

朝がた小雨模様でしたが、津和野に到着した時には上がり、風が少し強くなりました。
前日5月4日の真夏日とうって変わり、曇天で涼しく山城跡の散策にはちょど良いです。

先に太鼓谷稲荷神社たいこだにいなりじんじゃを参拝し、駐車場から観光リフト乗り場に向かいました。

太鼓谷稲荷神社の駐車場から観光リフト乗り場方面へ。

津和野観光リフト


十分ほどで観光リフト乗車駅に到着、九時から営業でまだ稼働していませんでした。


令和5年5月5日555のぞろ目。縁起が良い??


観光リフトは一人乗り。料金は大人往復700円。


リフトを降りたら遊歩道を歩きます。ちなみに、山のふもとから中国自然歩道を行くトレッキングコースもあります。

リフトの降車場から本丸までは400m、徒歩約20分の道のりです。
リフト乗り場では朝方の雨で足場がぬかるんでいるかもしれないので注意するよう言われましたが、そうでもありませんでした。

堀切跡ほりきりあと


堀切跡

途中、堀切跡ほりきりあとの道標が。

堀切とは、日本の城郭において造られることがあった防衛設備の名称である。山上の峰や舌状大地などに建つ山城や丘城で多く、敵が峰の上を伝ってやって来るのを防止するために、峰の方向に垂直に造る堀のことであり、通り道が途中で遮断されるので、攻め手は進行が困難になる。なかに水を入れない空堀の一種。城を防衛するための堀は通常、天守などの建物や曲輪全体を囲むように比較的長い距離でめぐらされるが、堀切は尾根や丘陵の盛り上がった形状を一部切り取るようなイメージである。腰曲輪や帯曲輪、切岸などと用いて、防衛力をより高めることもあった。堀切の遺構としては、静岡県の興国寺(こうこくじ)城、同県の葛山城などがある。

【刀剣ワールド】堀切より

出丸でまる


しばらく行くと視界が開け、左手後方に一本松のそびえたつ石垣が見えてきました。


出丸の一本杉。

出丸でまるとは、坂崎直盛の時代に構築され、指揮をした家老かろう浮田織部うきたおりべの名にちなみ、織部丸おりべまるとも呼ばれているそうです。
本丸の北側の防備を固めたそうです。


出丸でまるの松は一本?三本?

出丸の一本松近影

出丸の松は一本ですが、津和野百景図には三本松城と書かれているようです。
実際は何本だったのか…調べてみましたがよくわかりませんでした。

津和野今昔~百景図を歩く~【第二図】三本松城出丸

津和野百景図つわのひゃっけいずとは

最後の藩主亀井茲監の業績をまとめた「以曽志乃屋文庫」とともに亀井家に納められた文書の一つ。藩主の側に仕えた栗本里治が藩内をめぐり、名所や風俗、食文化などをスケッチして約4年の歳月をかけて百枚の絵を描き、詳細な解説を加えてまとめたものです。

日本遺産 津和野今昔公式サイトより

石段を登ります。

出丸の石段

中間地点、切り株のあたり段々畑のように水平です。

石段の左側、切り株のあたり水平です。

段床だんどこ


段床案内板

段床だんどこ敵の侵入を防ぐため急斜面きゅうしゃめん切岸きりぎし)を造った際にできた平場ひらば。地元で「段床」だんどこと呼ばれる中世山城ちゅうせいやましろ遺構いこうであり、場内各所に残る。”そうです。

出丸でまるに到着


史蹟が建てられています。

史蹟 津和野城址


出丸の平面見取り図

津和野城つわのじょうは、中世ちゅうせいからの山城やましろ引き継いでひきついでおり、本丸ほんまるとは別に出丸でまるがあった。出丸でまる別名:織部丸べつめい:おりべまる)は、関ヶ原の戦いせきがはらのたたかいの後に初代津和野城主しょだいつわのじょうしゅとなった坂崎直盛さかざきなおもりの弟である浮田織部うきたおりべきずいたと伝えられる。
きずかれた石垣いしがきには鎬隅しのぎすみ鈍角どんかくに折れ曲がる隅部すみぶ)が多く、山の地形に合わせた中世山城ちゅうせいやましろ曲輪くるわの形をとどめている特徴がある。出丸でまるには、番所ばんしょとして利用された平櫓ひらやぐら二重櫓にじゅうやぐらがあった。

案内板より

土塀どべい控柱跡ひかえばしらあと


出丸の平面図の下方に描かれているのがこちらの方角。
木材を模した樹脂製の柱が等間隔に並んでいます。

土塀の控柱のレプリカ
控柱の案内板

敵の攻撃や強風等による土塀どべい倒壊とうかいを防ぐための控柱跡ひかえばしらあと石垣修理いしがきしゅうりに伴う発掘調査はっくつちょうさでは、控柱跡ひかえばしらあと推定すいていされる柱穴はしあなが4カ所で発見されており、擬木ぎぼくでその位置を示している。本丸ほんまるなどに残る控柱ひかえばしら石製いしせいに改修されているが、出丸でまる控柱ひかえばしらは古くからの木製もくせいであったと推定すいていされる。

控柱案内板より


平櫓跡ひらやぐらあと


出丸の南東から津和野の町を臨む。厚い雲に覆われている。


平櫓跡の案内板

出丸でまるの南東隅にあった平屋建ひらやだて櫓跡やぐらあと番所ばんしょとして使われた建物には下屋げやが付く。発掘調査はっくつちょうさでは、平面L字形をした雨落溝あまおちみぞあとから多くの瓦片かわらへん出土しゅつどしている。(その範囲は黒色こくしょく石粒混いしつぶまじりの舗装ほそうで表示)。雨落溝あめおちみぞ石組水路いしぐみすいろにつながり、門の下を通った石樋いしどい出丸石垣でまるいしがきはしまで続く。

平櫓跡案内板より

「黒色の石粒混じりの舗装」というのに気づけませんでした。
足元に瓦礫がれきが敷かれており、中に古瓦ふるがわらがありました。
これは当時使われていた瓦で、取り壊したときに敷いたのだろうか?と夫と話していました。


出丸に敷かれている瓦の破片?

二重櫓跡にじゅうやぐらあと


二重櫓跡から崖下を臨む。切り立った断崖。



二重櫓跡案内板


出丸でまるの北東隅にあった二階建ての櫓跡やぐらあと出丸でまるの形状に合わせ、鋭角えいかく屈曲くっきょくする二重櫓にじゅうやぐらは全国唯一。
雷火らいかによって本丸ほんまるの主要建物が存在していなかった津和野城では、三ノ丸さんのまる南門櫓みなみもんやぐらなどとともに、城下町じょうかまちから見ることのできる数少ない建物のひとつであり、津和野城にとっては象徴的しょうちょうてきな建物であった。

二重櫓跡案内板より


出丸北東から津和野の町を臨む。津和野町のシンボル、青野山、椀を伏せたような形が美しい。

史蹟 津和野城趾散策、出丸はここまで、本丸に続きます。
お読みくださりありがとうございます😊






おまけ

本丸に続く途中にシャガが群生していました。

本丸の石垣が見える。
シャガ




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