深野だんだん田 和歌山別街道を行く⑤
前回ブログ「丹生大師、丹生神社 和歌山別街道を行く④」で予告しましたように、今回は「深野だんだん田 和歌山別街道を行く⑤」をお届けします。
いらんわい、と言わずに、ちょっとだけ見ていってもらえると嬉しいです!
さて、ここは松阪市飯南町深野地区です。ここに「深野だんだん田」があります。
和歌山別街道の西起点にほど近い、まさに深い野の続く斜面です。
人家がかなりあります。耕地面積(棚田)の割に、意外に大きな集落だなあと思いました。
「深野棚田」の説明を、観光みえのホームページから引用してご紹介しますと、「松阪市飯南町深野地区特有の石堤が成す風景。この珍しい石堤の田は、山上より下に向かって作られていったものです。平成11年度日本棚田百選に認定されました。」
では、さっそく車を降りて、深野だんだん田を歩いてみましょう。
上から見ると、田植えが終わったところ、これからのところ、ありますね。
下から見ると、目線より高い田には早苗は見えず、その石垣の規模に圧倒されるばかり。
これだけの石を運び、積み上げ、水漏れしないようにメンテする作業は、どんなにか大変なことだったでしょう。想像するだに気が遠くなります。
棚田には大きな農業機械は入りません。水の管理も、水道の蛇口からザー、というわけにはいかんでしょう。
水は上から下へ、自然の法則で一枚一枚の田に引水されるものと思われます。
軽トラや小型のトラクターが見えますね。この大きさなら細い農道や狭い田に入るようです。
植えられた早苗の条は規則性を認めることができます。機械植えですね。
しかしこんなに曲がった田ですから、田植機の運転も高度な技術がいるのではないでしょうか。
こうした水田耕作を担う農家はいるのでしょうか。
いるから今も田植えができている、としても、その実情は大変困難なものであることが容易に想像されます。
見て下さい。軽トラの地面の傾斜のきついこと!
ほんとに農家の人は大変だと思います。
観光資源としても宣伝される棚田ですが、だからといって地元にお金が落ちる仕組みがあるわけでもないでしょう。
ここに「石の芸術」と題する説明板がありますが、それによると、深野棚田の歴史は、
「室町時代、白猪山の西にあった北畠氏の『のろし場』に詰める武士の食料確保に始まった」
とあります。
山城の城壁のような石垣。これを維持するための補修が、営々と続けられてきたのです。
ここからは私見になります。というか、調査しておらないということです。調べればわかるのかもしれません。
というのは、冒頭に書きましたが、棚田の面積の割に戸数が多いなあという印象がありました。これに対する考察です。
実はぶらぶら坂の農道を歩いておりますと、鹿柵のネットを張り終えたと思しき高齢男性に声をかけられました。
今日はとても暑いですなあ
どこからおいでなさった?
そして、家に寄ってお茶をのんでいきなさい、と再三再四すすめられました。
むろん最初は遠慮しておりましたが、もしお誘いを無碍に断ったら、がっかりされるだろうな、と思いました。
こうして、90歳だとおっしゃるその男性の家にお邪魔したのであります。
台所へ通され、そこで冷たいお茶をいただき、茶菓子も供されました。ありがたい限りです。
男性はどうやら一人暮らしのようでした。子は町へ出ておられるのでしょう。
男性はいろいろなお話をして下さいました。簡単に要約します。
「この深野では米の転作が始まり農耕牛を売る者も出てくるなか、黒牛を飼うようになった。自分も参加し、但馬の黒牛を育ててきた。二十頭ぐらい飼っていた。松阪牛として高く売れた。品評会で優勝?もした。牛のおかげでいろいろ見聞を広め、多くの人との交流があり、著名人・外国人もたくさん見学に来られた。高齢になって牛飼いをやめたが(ついこの前?)、深野に家を構えてこれまで生きてこれたのもすべて牛のおかげである。」
深野地区はまさに松阪牛の拠点だったことがわかるお話でした。知らなかった。。。
現在も、畜産経営を近代化しつつ、牛飼いは続いているようです。
そうなんだ!
ここが松阪牛の生まれる場所。棚田の耕作だけでなく、こうした畜産業があったがゆえに、どの家々も立派で、戸数も多いのではないか。
これは私の推測、仮説です。当地畜産業のデータを調べ、歴史分析すればはっきりするとは思いますが、今のところそんな印象です。
それにしましても、偶然出会った90歳男性の、なんと凜々しかったことか。失礼だとは思うが、このような深い野に、心も視野も広く、仏様のように親切な野の人がおられることに、深く感動しました。
深野だんだん田は、人あってこそ、続いている。続いてほしい。。。と思いました。
取材日:2023.6.10
※タイトルの「和歌山別街道」の呼称については「みえの歴史街道(三重県環境生活部文化振興課)HP」より引用しました。
『和歌山別街道は紀州藩の本城と田丸城を結び、途中で熊野街道や伊勢本街道と合流し、伊勢参宮の道として多くの旅人に利用されました。この街道を松阪市飯南町粥見から玉城町田丸に至る道と考えると和歌山別街道と呼ぶことができますが、高見峠をこえて伊勢に向かう参宮ルートと捉えるならば、伊勢南街道と呼ぶことができます。』
おしまい