消えた「伝飛鳥板蓋宮跡」の文字
万葉文化館の庭園の花を観賞した後、その次に訪れたのは「史跡 伝飛鳥板蓋宮跡」です。
飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)は、642(皇極天皇1)年に造営され、645年の大化の改新の舞台としてつとに有名です。
ところが久しぶりに訪れてみると(しょちゅう来ているのに!)、なんと「伝飛鳥板蓋宮跡」の文字が、説明板から消えている。しかもその説明板はピカピカに新しい。
「史跡 飛鳥宮跡
昭和47年4月10日指定
(旧称 史跡 伝飛鳥板蓋宮跡 平成28年10月3日 名称変更)
日本書紀などには、推古天皇から持統天皇に至る七世紀の約一〇〇年間、歴代天皇の宮がつぎつぎと飛鳥の地に造営されたことが記されています。
(中略)
宮の中心部分は、塀で囲まれた東西約158メートル、南北約197メートルの長方形の区画(内郭)で、区画の内側では、大規模な掘立柱建物や石敷き広場などが見つかっています。
(中略)
内郭を囲むようにして、建物や中柱、石組溝などの施設が営まれており、それらを外郭と呼んでいます。
また、内郭の東南にはエビノコ大殿と呼称される大規模な掘立柱建物を中心とする一区画があることも明らかとなっています。
これらの遺構は木簡や土器などの出土遺物をもとに、日本書紀に記された斉明天皇の後飛鳥岡本宮、および天武・持統天皇の飛鳥浄御原宮などに相当すると考えられています。
令和3年3月 奈良県」 説明板より
別な場所(宮跡内)の説明板には、飛鳥京跡の変遷、また「伝板蓋宮跡」の呼称が消えた(名称変更)理由が、こんなふうに書かれていた。
「飛鳥宮跡の変遷
飛鳥宮跡では、3時期の宮殿遺構が重なって造られており、次のように考えられています。
Ⅰ期遺構 舒明天皇の飛鳥岡本宮
Ⅱ期遺構 皇極天皇の飛鳥板蓋宮
Ⅲ期遺構(前半) 斉明天皇の後飛鳥岡本
Ⅲ期遺構(後半) 天武・持統天皇の飛鳥浄御原宮
(中略)
Ⅰ・Ⅱ期遺構は、最後に作られたⅢ期遺構を保護しながら調査されるため、その構造はまだよくわかっていません。
Ⅲ期遺構は斉明朝に造られた宮であり、改築されながら天武・持統朝にも引き継がれています。
(中略)
なお、この地域には板蓋宮跡地という伝承がありました。昭和47(1972)年に史跡指定された時には、板蓋宮という確証がなかったため、「伝飛鳥板蓋宮跡」とされましたが、その後の調査・研究成果を踏まえて、「飛鳥京跡」に名称変更されています。」 説明板より
そうなのか。伝飛鳥板蓋宮跡の文字が消えた(名称変更)理由は、発掘調査や研究によりだんだん実相が明らかになってきた結果なんですね。ここが、Ⅲ期にわたり営まれた宮跡だと確証が得られたから。
ということで、ちょっと雲多いお天気ですが、新涼の「飛鳥宮跡(あすかきゅうせき)」を見て回りましょう。
こうして写真だけ見ると、何もわかりませんね(笑)
この日、雨上がりの宮跡には訪れる人もありませんでした。復元柱(頭)へ草分けて近づこうとすると、足下が濡れます。ああこうして、あえて草が繁茂するにまかせ、それにより地下遺構を保護しているのかもしれないなと思いました。
とは言え、見たいものは見たい。そこで地上に痕跡を残し、古代を感じさせてくれる数少ないものの一つに、宮跡方面(現在水田)へと引かれた水路があります。
むろん石の護岸は近代の造作なんでしょうが、この曲がり具合は、どうもあやしい。もしかすると古代水路を踏襲しているのではないか。だとすれば当時もまた、このように水が流れていたのではないか。
この水路上流にあるはずの取水源は、飛鳥川(石舞台あたり?)でしょうね。
「飛鳥は石の都であり、また水の都である」とは、いつだったか某考古学者から聞いた言葉です。
内郭を過ぎ、東西の道を横切ります。
その後改変されていないとすれば、この道の傾斜(西が低く東が高い)は、古代地形の排水の方向を示しています。これならきっと、宮殿施設の排水は良好だったんだろうな、と想像します。
「エビノコ郭」です。
「エビノコ郭」の説明板を見つけられませんでしたが、このあたりかな。駐車場の少し南の、岡地区児童公園あたり?
(児童公園の写真撮り忘れ)
エビノコ郭は、内郭の東南にあり、エビノコ大殿と呼称される大規模な掘立柱建物を中心とする一区画であることが明らかとなっています。
天武朝に造られた「大極殿(だいごくでん)」とみなす見解多しとのこと。
飛鳥には興味つきません。その好奇を満足させてくれるのは、文献資料による知識の吸収だけでなく、やはり現場に立って周囲の自然を愛でかつ感じつつ、あれこれ思索することです。(それぞれの楽しみ方あると思いますが)
飛鳥トラップという言葉を聞きます。まさに自分はトラップにはまってしまった。しまったあ~笑
2024.10.8(投稿 2024.10.10)
[補記]
ある方から以下のようなコメントをいただきました。
「天皇の統治とともに宮を遷してきたかのような表記がされていると、古代の天皇の思いつきで新たな宮が造立されてきたかのように感じてしまいます。それほど天皇の権力が強大であったというイメージ作りにはなると思いますが、、。遺構の発掘は文字通り”掘る”ことが基本作業ですが、何故埋まっているのか!という着眼点で宮跡を見るのも面白いと思います。飛鳥川は石舞台古墳地点で冬野川が合流しているため、古代ではたびたび氾濫して飛鳥の宮を押し流し土砂を堆積させてきたと想像できます。そういう土石流災害のたびに堆積した土砂を整地して宮を改築していったのではないでしょうかね。Ⅰ期Ⅱ期Ⅲ期遺構の間に起こったかもしれない災害についての考察があると飛鳥宮跡の変遷に具体性が付与されると思います。」
私の返信は以下のとおりです。
「コメントありがとうございます。そこで第一の考察(宮の変遷)ですが、実は藤原宮の造営までは、天皇一代限りの宮がルールだったらしいです。そういうと、それまでの天皇はそれぞれに自分の宮をもっていますね。なぜそういうことなのかはわかりません。また天武・持統天皇あたりまでは次の天皇(大王かも?)は30歳以上の弟とかが即位?することになっていたようです。第二の考察(地下に埋もれる理由)については、一般的には河川氾濫による土砂流入でしょうね。飛鳥京の場合は、新宮を造営する時の人工的な工事による部分もあるかもしれません。(地形的には冬野川の氾濫は?のように思います。飛鳥川または冬野川からの取水後の水路が溢水したことは考えられます。これに伴う土砂流入は当然想定されますね) また後世の開発(水田)もあったかと思います。そのあたりは場所場所で違うので、よく調べたいと思います。ほんとにありがとうございます。またよろしくね!」
(勉強になるなあ←つぶやき)