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小説/しまの記憶

長いです。約4900字。お時間あるときにどうぞ。
高坂 正澄



1 一日目

最初はテレビの画面のテロップだった。

『近畿を中心に広い地域で地震』
『震源地は淡路島付近』

このあと臨時ニュースが始まった。

『午前5時46分頃マグニード7.2の地震。淡路島が震源地。神戸で震度6、京都5、大阪4、各地で被害……』

淡路島? 震度6? マグニチュード7? 
ほんとうか? 
男の脳裏に不安がよぎる。
すぐに淡路島の女の家に電話した。

呼び出している。呼び出している。だが出ない。だんだんと不安が高まっていく。ああ、はやく電話に出てくれ……

やっと、つながった。

男の電話に女は喜びの声をあげ、とてもこわくてこわくて仕方がないがお母さんもわたしもケガはないので心配しないで、と言った。
「これからすぐ体育館に避難するの。また揺れてるから……」
長くは話せなかった。女が急いていたから。

しかしこれが最後だった。このあと淡路や神戸への電話は一切つながらなくなった。かつての同僚知己の安否もわからない。

この日のテレビや新聞号外は、一斉に地震を報じた。
『近畿烈震、震度6は68年ぶり、百人生き埋め情報も、福井地震以来の死者、近畿の鉄道マヒ』

鉄骨鉄筋コンクリート造のビルが崩れ落ち、高速道路の高架がぐしゃっと横倒しになり、走っていた車が宙に浮いた。電車も脱線した。古い木造住宅街が猛煙をあげ始めていた。

だが、女のいる島の状況がわからない。テレビに情報が出てこないのだ。
出ないということはたいしたことがないからないのか。それとも通信網が途絶えて何もわからないからなのか。それもわからない。

時間が経つにつれ、今朝、ほんとうに女の声を聞いたのだろうか、夢枕に声が聞こえたように錯覚しただけなのか。その記憶がだんだん曖昧になってきていた。

明石海峡大橋は? アンカレイジやタワーに影響はないだろうか? 

男が従事した舞子側アンカレイジは丸6年の工事を終え、去年完成した。舞子側だけで35万立方メートルのコンクリートを打設した。これは一つの重力式コンクリートダムの大きさである。吊橋にはこの大きさと重さが必要なのだ。
男の担当ではなかったが、岩屋側アンカレイジ、二基の主塔基礎、その上のタワーも海上にそびえ立った。そして男は東京に転勤になった。

その後、海峡大橋工事の工程は上部工に移っていた。世界最長のメインケーブルが初めて海峡を渡り、二つのアンカレイジに連結された。アンカレイジがメインケーブルの引っ張り力をつなぎとめる。これからハンガーロープ、補剛桁、舗装工事、付帯工事などが進められる手はずになっていた。

明石海峡大橋はマグュニチュード8.5の地震に耐えられる。まだ工事途中ということが懸念材料だが、すでにメインケーブルが渡されタワーが連結しているので震度6にも不安はない。
しかし相手は活動する自然。地震の破壊力が予想を超えるかもしれない。
被災現場の今は混乱しているだろう。が、すぐに構造物の緊急点検、その次に変位測量が実施されるはずだ。

男は舞子側アンカレイジの工事に一区切りがつくと、休みを取った。
明石港から出る渡船に乗って海を越えた。これまで遠くから見ていた島を回ってみたい。どこかで一泊するのもよい。一度ゆっくり島を満喫したかった。

この時、島の女と出会った。
女の店で酒を飲んだ。女は母親と二人で店を切り盛りしていた。それから頻繁に島に行くようになった。

ある日の夜遅く、海が荒れて岩屋港から船が出なかった。その夜は女の家で泊めてもらった。飲み過ぎたのかぐうぐう寝て朝が来た。

時間を追うごとに神戸の地震被害が拡大していった。
『猛煙、倒壊、陥没、残骸の下から悲鳴、キバむいた活断層、まるで地獄絵……』
発表される死者の数もどんどん増えている。

依然、女と連絡がとれない。余震もやまない。男は予定通り仙台出張に出たものの女や知り合いのことが心配でならない。早々に仕事をあげて日帰りにした。

神戸と洲本は震度6である。では岩屋は? 西浦や東浦は? 震源に近い北淡路がどうなっているのか。ほとんどわからない。

明石を離れて半年近くになる。それから一度も島に足を運んでいない。仕事が忙しいことを自分への言い訳にして。

しかしふと、明石の5年、と男は振り返る。
この間に、徐々に女の存在が大きくなっていった。重さは感じないが、大きさはとても大きい。なぜか? 
なぜかわからないが、お互いに今何をし何を考えているか、会わずともわかるようになってきた気がする。
こうして半年離れてみてよくわかった。


2 二日目

男の会社は被災地の復旧支援に乗り出すことを決めた。
関西出身者や在阪経験のある技術系社員を全国から集め、緊急支援隊を結成する。

男はいてもたってもいられない。東京を離れるのは抱えている仕事を考えると逡巡されたが男には仲間がいる。彼らに後をまかせることができる。
男は支援隊募集に手を挙げた。

この緊急支援隊の業務は被害状況の把握とがれき撤去、応急対策である。

トップの指示で大阪支店が中心になって全国の支店と作業所から土のうやシートなどの諸資材、建設機械を手配中だ。それらを海路で搬入することも検討している。調査活動の移動手段としてオートバイも何台か準備するという。
大型二輪の免許を持っている。役に立つかもしれない。

東京からすでに何人かが大阪第一陣として出発していた。男は第二陣のグループである。出発は明後日。その日の夕刻には必ず大阪支店に集合だ。

そこで男は大阪に入る前に島に渡れないかと考えた。上司に淡路島に行かせてほしいと願い出た。親しい人の安否が心配なこと、島の被害状況の把握も支援活動に有用なことを説明した。そして了解をもらった。

しかし淡路島に渡ろうにも阪神間の鉄道は完全にマヒしていた。高速道路もダメ。明石フェリーや播淡汽船、須磨から出る東浦フェリーも海上で立ち往生している。
では、どう島に渡るか? そのルートは? 四国から大鳴門橋ルートなら確実だが時間のロスがある。深日から津名へのフェリー?

甲子園から志築へのフェリー? だがこれらフェリーは運航しているだろうか?

ともかく夜遅く、男は飲料水のポリタンク、食料、毛布などを車に積みこんで東京を出発した。

名古屋の手前で少し休憩した。京都経由大阪入りをやめ、三重から奈良に入った。伊勢街道とか和歌山街道と呼ばれる三桁国道である。

そして奈良と和歌山の県境である真土峠を越え、そこからまっすぐ西へ紀の川筋を下り、ようやく岬町深日港に着いた。そこで二時間待って、なんとか津名行きのフェリーに乗ることが出来た。


3 三日目

三日目の午になっていた。船内は淡路入りの人と車で混んでいた。甲板で大阪湾の風に吹かれた。冷たかった。六甲山や淡路島の山容が、いやに高く、そして遠く見えた。

フェリーが津名港に着いた。東浦の海岸道路を走った。かつて、この道を何度快走したことだろう。今は気は急いているのに車のスピードはのろかった。渋滞だ。どこかで何か、たとえば道路が崩壊したりして通行規制とか迂回を強いられているとか、が生じているのだろう。

沿道の家々の屋根が青い。瓦がずり落ちた屋根から風雨が入りこまないように、あるいはこれ以上被害が拡大しないように応急的にブルーシートで覆っている。
そのブルーの数がだんだん増えてくる。地元以外の車や人の動きも慌ただしい。すでに支援物資や復旧の手が島外から入ってきているようだ。

女の住む町が見えてくる。

小学校の体育館は町の中心にあった。車をグランドに停め、建物の中に入る。避難してきた老若男女は床に車座になったり、あるいは横になり、あるいはあぐらをかいて弁当やおにぎりを食べていた。走り回る子もいた。

男は女を探し回った。
しかし見つけることが出来なかった。それで段ボール箱の荷ほどき中の人に、女を知らないかと聞いた。
「しまちゃん? しまちゃんなら地蔵はんにおるよ」
地蔵はん? 聞けばその地蔵さんは女の家の近くにあるという。去年、新しい地蔵堂が竣工したばかりで、役場の人もそこなら避難してもいいと認めたらしい。

男は小学校から地蔵堂まで歩いた。まっすぐいけば浜。その一本道を下っていった。

地蔵堂は木造平屋だった。大きさは普通の家の半分ぐらい。屋根はいぶし瓦で葺かれ、壁は白い新建材。入り口はアルミサッシの引き戸。そこには「公会堂」と書かれた看板が掲げられていた。

入り口の引き戸を開けた。上がりかまちから奥は畳の大部屋で、更に奥に小さな木造の地蔵立像がまつられていた。大部屋の中央に布団やカラオケセットやらに囲まれて十人ほどの人が坐っていた。みなお年寄りのようだった。

入っていくと一斉に男に顔を向けた。男は大きな声で女を知らないかと聞いた。
「しまねえけ?」と中の一人が答えた。「しまねえやったら家で片付けとおよ」

地蔵堂を出て、女の家を訪ねていった。

何回か泊めてもらった女の家も瓦がかなりずり落ちていた。古い木造の二階建てである。

建物全体が少し傾いているように見えたが、屋根以外の大きな損傷はなさそうだった。浜風が運んできた砂が積もった狭い庭に、大小数個の植木鉢が倒れたままだった。

家の玄関は開いていた。男は家の中に入った。
暗かった。台所の床に二つの人影。座り込んで何かしていた。

二人は玄関の男に気付いた。その一人が「誰?」と声をあげた。

男が顔を見せると、うち一人が手に持っていた物を落として勢いよく立ちあがった。そして駆け寄ってきて男の体にとびついた。

男も女を強く抱いた。女の体は軽く、しかし懐かしい匂いを放っていた。
 ……
「来てくれたのね」と女は泣いた。「洲本からなの? 津名?」

女には話したいことが山ほどある。


4 邂逅

――その朝、女は母と手をとりあって体育館に逃げた。昼頃には体育館は次々と避難してきた住民で溢れかえった。余震が続く中で、しかし誰もがものを分け合い励まし合い助け合った。夜になると床に段ボールを敷いて、厚手の服や毛布をかぶって寝た。
翌日、地蔵堂に移ることにした。体育館はだんだん手狭になってきていた。だからスペースを空けられるなら空けた方がいい。在所の地蔵さんなら家も近い。お隣さんとも一緒になれるしお母さんもそうしたいと言う。
それで地蔵堂に移ったのだ。

女は化粧もせず着ている臙脂色の体操服も似合っていなかったが、男には美しくも愛おしくも感じられた。

その女がなんとも言えないような顔をして、言った。
「お父さんがあたしたちを守ってくれたの」

そもそも船乗りは、倒れそうなものは何でも固定しておく。波が高く船が揺れるからだ。その性癖と生来の几帳面さから、女の父は、自分の家の箪笥や食器棚にもステーを打ち、短いチェーンで壁や柱に繋いでいた。
おかげで箪笥も食器棚も倒れなかった。だから死にもせずケガもしなかった。

「お母さんもわたしも」と女は言った。「そんなお父さんを笑ってたのに……」 

女が話を終えると男は家の柱や梁など構造材の損傷程度を点検して回った。
外から見ただけではわからなかったが、やはりひび割れやズレが生じていた。簡単な修理や補修程度では済まないだろう。

「まだやまない余震も心配だから出来るだけ家にいないほうがいい」
そう男が言うと、二人は悲しそうな顔をした。
「お母さん、やっぱり地蔵さんに戻りましょう」

男は胸の詰まる思いがした。このまま放ってはおけない。しかし明日、大阪で支援隊に合流し仲間とともに復旧支援に赴かねばならない。

男は明日大阪に戻ると告げた。

すると女はきっぱりと言った。
大阪や神戸に友達がいる、また明石に家のある店の客のことも心配だ、そういう大変な目に遭っている大勢の人たちのためにあんたはきっと役に立てる人だと思うから……行って頂戴、気を付けてね、と。

女に誘導されて、男は車を小学校のグランドから地蔵堂隣の神社境内に移動した。今夜は車で眠る。眠ることが出来る…

境内には何台か車が停まっていた。彼らも車中泊なのだろう。

夜は暗く、しんしんと冷え込んでいる。



※地震データは当時(1995年)の新聞記事等による。その後確定値として修正されているかもしれない。