「大織冠 藤原鎌足に迫る」~阿武山古墳の新事実に関する講演会聴講記
・はじめに
「大織冠(たいしょかん) 藤原鎌足に迫る 史跡・阿武山(あぶやま)古墳の新事実」をテーマとする講演会を、明日香村の飛鳥資料館で聴講しました。
阿武山古墳は、藤原鎌足の墳墓といわれています。
その阿武山古墳は、大阪府高槻市の阿武山(標高281m)南斜面に所在する京都大学地震観測所の敷地内にあります。
なので、大阪府高槻市の古墳の話が、なぜ明日香村の飛鳥資料館であるのか?と思っていましたが、講演会チラシによれば、阿武山古墳に関わる大織冠の復元品が、飛鳥資料館に所蔵されているという縁によるようでした。
なお推測ですが、これまでに何らかの調査研究上の連携関係もあったでしょう。
・講演概要
特別講演会「大織冠 藤原鎌足に迫る 史跡・阿武山古墳の新事実」
講師:牟田口 章人 (帝塚山大学客員教授)
主催:独立行政法人国立文化財機構 奈良文化財研究所 飛鳥資料館
(講演会チラシより)
「1934年、大阪府高槻市阿武山で発見された阿武山古墳。未盗掘の「夾紵棺(きょうちょかん)」には、高貴な男性の遺骨とともに玉枕や冠帽の金糸が残っていました。十分な調査がないまま埋め戻されたこの古墳の被葬者は誰か--
発見時に撮影された写真の画像解析を中心に研究が行われる中、近年、棺内の金糸が「大織冠」であることが判明しました。
大織冠とは飛鳥時代の最高冠位であり、藤原鎌足が授かったとされています。
今回、この研究成果に関する講演会を大織冠の復元品を所蔵する飛鳥資料館で開催します。」
また、2024.10.18 朝日新聞(奈良版)の記事も、以下に抜粋します。
2024.10.18 朝日新聞(奈良版)の記事(抜粋)
「講師の牟田口氏は、朝日放送の記者だった1982年、京都大学地震観測所に残されていた棺を撮影したフィルムや乾板を発見。京都大学考古学研究所が写真を検討する研究会を発足させた。
2014年に牟田口氏は帝塚山大学に移るが(客員教授)、その後も棺内のX線写真をデジタル画像化し、金糸の部分を着色するなどして、織り方を徹底検証した。
こうして、「大化の改新」の際に定められた2種類の冠が副葬されていたことを明らかにした。10月19日に明日香村で開かれる講演会で発表する。」
このような興味深い講演を聴講しての感想は、まさに金糸一本を手がかりに、多くの研究者が、すごい時間スパンで情熱を燃やされてきたんだなあ、というものでした。
「阿武山古墳は藤原鎌足のお墓でほぼ間違いない」の「ほぼ」が取れる新事実だったと思います。
・大織冠・藤原鎌足について
~『人名辞典 むさし書房版』より~
藤原鎌足(614~669・推古天皇23~天智天皇9)
大和末期(飛鳥期)の政治家。藤原氏の祖。
生前は中臣(なかとみ)氏。初名鎌子。
大和(奈良県)高市郡の生まれ。中臣連御食子(むらじみけこ)の子。唐に留学した僧・旻(みん)・南淵請安(みなぶちのしょうあん)に師事して、新知識を学び、国家改革の情熱を抱いた。
神事祭祀の家の出であったため、仏教に接近している蘇我氏に反感をもち、中大兄(なかのおおえの)皇子の知遇を得て、ひそかに蘇我氏打倒を計画し、645年中大兄皇子とともに蘇我氏を滅ぼし、大化の改新(※)に成功した。
そののち大化の改新の中心となり中大兄皇子を助け、改新の政治を推進し、改新事業の第一の功臣となった。
その死にさいしては天智天皇が親しくその病床を見舞い、大織冠を授け、内大臣に任じ、藤原朝臣の姓を賜った。」
※645年 乙巳の変
・阿武山古墳を訪ねる(2016年)
大阪府高槻市の阿武山古墳に行ったときの写真を見つけましたので、参考情報として貼り付けておきます。
2016年11月某日撮影
◇ ◇ ◇
・おわりに
なかなか断定できないのが歴史です。科学的根拠なしに歴史を語ると創作になってしまいかねないからです。(創作もまた、その動機は歴史である。)
でも個人の妄想であれば、これほど楽しいことはありませぬ。
実は、奈良県桜井市の多武峰(とうのみね)の御破裂山(ごはれつざん)にも藤原鎌足のお墓があります。
こちらは阿武山から分骨?されたといわれています。
ちなみに藤原鎌足公の生誕地は、御破裂山西麓の小原(おおはら)の里(明日香村)です。お墓と生誕地の間は3キロほど(直線距離)で、すごく近いです。お墓から小原の里は見えるのかなあ? 今度確かめてみよう。
私が藤原鎌足を好きな理由の一つは、国家統治のナンバー2、あるいはナンバー3、4のままで大きな仕事をなした人だからです。組織におけるほんとうの実力の持ち主です。
そんなわけで、阿武山古墳にも、多武峰のお墓にも、もう一度行こうと思います。
おしまい
2024.10.20