平家維盛歴史の里
平家落人伝説は、全国各地にあるようです。
屈曲の多い長い海岸線の入江や岬、離れ島、けわしい山地の谷あいなどに、平家の落人が開発したという言い伝えをもつ集落は、平家にゆかりの深い九州や四国はもちろん、近畿、中部、関東から東北にまでおよんでいて、全国で100をこえると推定されている。(人物探訪日本の歴史3「平家と源氏」暁教育図書より)
ここ、奈良県野迫川村も、そんな平家落人伝説をもつ集落の一つです。
野迫川村は、高野山から熊野本宮に至る熊野参詣道小辺路(こへち)沿いの、けわしい山に囲まれた谷あいの村です。2024年3月時点の人口は、なんと334人。離島を除けば、日本で最も人口が少ない自治体だそうです。
そんな野迫川村の「平家維盛歴史の里」にやってきました。
ざっと見ですが十数戸の小さな集落です。そこに見晴らしのよい丘中心に、さみしげで、つつましい公園があります。
平維盛
維盛は保元三年(1158)、清盛の長男・重盛の長男として生まれ、一門の名誉といわれたほどの芸能の名手でもあったといいます。
さて、一の谷の合戦に敗れた平家は、熊野水軍の援軍を求めるため、平維盛公(二十六才)を、熊野別当田辺湛増のもとへ使者として派遣します。維盛公は田辺の地に赴きますが、しかし天下の情勢はすでに源氏側にあったため、湛増は援軍を断ります。
湛増は、源氏の追討から守るため、維盛公を自分のもとに匿います。
源頼朝の一大平家狩りがおこなわれはじめると、湛増は、維盛公を奥吉野の山岳地帯に逃します。
こうして、山岳流浪潜伏三十余年、最後に野迫川村に到着した維盛公ですが、源氏追討と山岳突破の疲労により、この地・平維盛の里で終焉。六十一才という。
(上掲図書及び現地説明板より要約)
野迫川村の「維盛歴史の里」は、地名もそのもので「平」というのですね。(下の写真)
伝説が先か、地名が先か。そこは調べておりませんが、伝説とリアルが融合しています。
そんな平集落を見て回りましょう。
里人の影もなく、桜も散り始めた集落と公園を歩き回って、駐車場に戻ってきまして、山と空を見あげて深呼吸一つしますと、「これ(伝説)ほんまちゃうやろか?」
こんな思いがふつふつと湧いてきました。
無住らしき家も何軒かみかけましたが、そんな家の庭には、さみしげでつつましくも、楓の若葉が膨らみはじめておりましたよ。
2024年4月